top of page
2017年12月の話
 
だらだら うろうろ わくわく
​松下育男

 

 今年のはじめに会社を辞めるまで、僕は43年間勤め人として過ごした。思い出すと、勤め人ってやっぱり容易じゃなかった。いつも何か失敗をしでかすんじゃないかって恐れていたし、仕事の期限もこちらの気持ちとは関係なしに、きちんとやってくる。

 やっと土曜日になって、でも土曜日の朝って、まだ仕事をしていた時の緊張状態が続いているから早朝に目がさめてしまうし、お休みの頭にはなっていない。

でも、日曜日の朝くらいになると、頭も体も完全にお休みの状態になっている。だからよく眠ってしまうし、目がさめても蒲団の中でぬくぬくといつまでもだらだらとしている。

 だらだらとしている頭のなかで、ふと明日の会社の予定が思い出されてきて、ああそうか明日は朝イチでプレゼンテーションだなと思い出す。資料は金曜の夜にまとめてはあるものの、蒲団の中で月曜のことを思うと、すごく面倒に思えてくる。外人の前に行って、下手くそな英語で説明なんかしたくないと思う。自分なんかに、ちゃんとできるわけがないと思えてくる。そうなると、朝のだらだらした気持ちは一気に冷めて、せっかくの休みが台無しになる。気持ちは沈んで、ただもう月曜の朝を待つだけの日になってしまう。

 で、月曜になって早起きをして会社に向かう。とうとうその時が来て、でも不思議なのは、それなりに仕事をこなしている自分がいることに気が付くこと。蒲団の中で想像していたよりも、実際に起き上がって自分の脚で歩いて、自分の声で話をしてみれば、結構できる自分がそこにいるじゃないかって思い始める。

 つまりね、だらだらした状態の時の自分には、自分の価値がわからないものなんだ。自分の能力とか才能って、ただ頭のなかで考えていてもわかるものじゃない。だから、わからないものに絶望するなんて変だよということ。

目はソトを向いているから、人のことはすごくよく見える。すごいなって感じる。人の詩はすごくよく見える。うまいなと思う。こんなにうまい詩、自分には決して書けるわけがないと感じる。でもね、そう感じている自分と、いざ詩を書いている自分は別物なんだ。夢中になって書いてみてあとで読み返すと、そうか、こんな詩が書けたんだっていうことがある。

 自分の能力ってわからない。わからないから努力ができる。そう思う。

で、自分の詩がだめだって感じている人ってたくさんいる。むしろそういう人の方が多い。詩を書いていて自分が駄目だと思っている人のことが、僕は嫌いじゃない。根が真面目だからそう思うんだし、そう思っている人だけがいつか優れた詩を書くようになるんだとも信じている。でも、そんなことを言っても、詩を書いているのに自分の詩がダメだって感じていることは苦しいし、つらい。

 だから、自分の詩がだめだって感じることは悪いことではないと思うけど、それも限度の問題。人って思っているよりよほど弱く出来ている。こわれものなんだ。

会社にいる時はもちろん、家族の中でも、友人関係でさえ、辛いことってざらにある。だったら、好きで書いている詩に向かっている時にまで、どうして辛い思いをしなくちゃいけないんだろう。自分を追い詰めなきゃならないんだろう。あるところまで追い詰めたのなら、そこでそっと手をほどいてあげるようにしたい。

自分の詩がダメだって感じているその理由は、もちろんいろいろあると思うんだけど、そのうちのひとつはたぶん、いつも同じようなことを詩に書いているってことなんじゃないかと思う。いつも同じ発想で、同じ語彙で、同じ展開の詩ばかり書いている。そういうのしか書けない。もっと別のものをと思っても結局はいつものパターンに戻ってしまう。

 でもさ、同じ頭で同じ言語を使って書いているんだから、同じような詩が書けるのってあたりまえだと思う。むしろ、同じと感じるそういう場所を見つけ出したんだって、そのことを誇りに思っていい。いつも帰ってゆく詩の書き方を、自分は獲得しているんだって思う。うろうろできる場所をしっかり見つけることができたんだってこと。そのすごさを褒めてあげる。同じような詩が書けることに、感謝をする。そうしているうちに、真剣なうろうろが、いつか詩に深さを与えてくれるようになる。

 話が長くなって申し訳ないけど、言いたいことは、自分の詩がダメだと考えることは悪いことではないけど、限度があるよ、追い詰めすぎると詩よりもなによりも、自分がダメになってしまうよということ。

好きで書いている詩にいじめられる必要はない。もっと抜け穴を作って、詩といい関係を持つようにする。身勝手でわがままな、詩の友人になる。

 僕の娘がまだ小さかった頃に、多摩動物園に連れて行ったことを時々思いだす。動物園の門へ向かう道を歩いている時に、小さな手で僕の手をしっかりと握っていた。あんまりお喋りな子じゃなかったけど、突然、「パパ、ワクワクする」って言った。僕はその言葉を聞いて、そうか、ワクワクするって日本語があったんだなって思った。

 つまりね、いくらたくさんの詩を書いたあとだって、新しい詩を書こう、書きたいという衝動を、いつもわくわくと感じていたい。単純なことだ。

bottom of page