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2018年1月の話
 
​詩の居場所
​松下育男

 

 きのうから考えていたんですけど、今日は「居場所がないこと、その不安を受け止めること」という話をしようかと思います。

 先月も話したんですけど、僕はコカ・コーラという会社に43年間働いていて、昨年の3月で勤め人生活を辞めました。コカ・コーラって、グローバルな会社だから海外から来ている人も多いんですね。日本の市場ってよそに比べて複雑だから、他の国の優秀な人は、日本に来てその複雑な市場を学んでゆくことがあるわけです。だから優秀な外国人と働く機会がずいぶんあった。会社を辞める直前も、スエーデンから来ている人が上司だった。って、今日は別にコカ・コーラビジネスの話をするわけではないから安心してください。(笑)その上司も昨年末に日本を離れることになった。だから送別会があったんですね、六本木で。

 それからもう一つ、すでに日本をだいぶ前に去っていって、ロシアのコカ・コーラで働いていた元同僚が、この人はアメリカ人なんだけれども、久しぶりに日本を訪ねてきたから会おうよという話になった。15人ほどの昔の連中が集まった。これは表参道だったかな。

 もう横浜の山奥で9ヶ月も隠遁している僕としては、六本木や表参道なんてまぶしい所へ行くのは抵抗があったんだけど、昔の知り合いからお呼びがかかるだけありがたいかなと思って、杖を突きながら電車に乗って出かけた。

 で、集まりは賑やかだったんだけど、ああいう集まりって、席に座ると、知っているんだけど、ホントに近くで働いていたわけでもない人の隣りに座ることってあるわけ。もちろん知っているんだけど、そんなに親しいわけではないという人。つまり、僕が主宰している集まりではないから、それは仕方がないわけ。

 で、そういう人と隣になると、どうしても深い所から話をするというわけには行かない。それから、集まりの参加者の中で、会社を辞めているのは僕だけ。他の人達はみんな、日々の仕事に従事している。そうなると、隣に座った人が僕に話しかける時に、大抵の人の最初の質問は、「で、会社を辞めて毎日、何をしているんですか」ということになる。

 そんな時、どう答えていいのか困ってしまう。たぶんその質問に対しては、「ゴルフ三昧です」とか、「そば打ちを始めました」とか「園芸です」とか、そんな答を期待しているんだと思う。でも、ぼくはそうじゃない。だからと言って、「えーと、このところ『初心者のための詩の書き方』をせっせと書いています」なんて、いきなり言えない。「詩の教室で話をしている」なんて言う勇気は、ない。だって、相手は詩人ではなくてカタギの人だから。 

 それに、万が一そんな話をして、相手が「そうですか」と優しく言ってくれたとしても、それから先に、話は進まない。だからしょうがないから、「いや、毎日なんにもしていないのです」と答えるしかない。なんにもしていないです。まあ、それが間違っている答とも言えないけど。

 それで、その時に考えたのが、「どうして詩を書いている」って正直に答えられないのかということ。これが、俳句を詠んでいるとか、小説を書いて秘かに芥川賞を目指しているとでも言えば、「何を考えているんだか」と軽く見られることはあっても、詩を書いているというより、よほど恥ずかしくはない。

 夢見心地の女子高生が「詩を書いています」というのではなくて、定年後の爺さんが「詩を書いています」というのは、すごく恥ずかしいことなんだと思う。

どうして恥ずかしいのだろう。それは、たぶん詩には居場所がないからなんじゃないかって考えた。この国の、今という時には、現代詩の居場所がどこにもない。というか、昔もそうだったし、たぶん他の国でも似たようなものなのかな。俳句にも、短歌にも、小説にもある居場所が、詩にはない。

 じゃあどうして詩には居場所がないんだろう。いくつか理由は考えられるけど、その1つは、

ー 生きていることにいつも疑問を持っていて、どんな説明にも容易に納得できない人

ー しっかりとした居場所や自分の場所を決めることにためらいを持っている人

ー あるいは、どこにいてもそこが自分の居場所だとは信じられない人、自分はもっと別の所に帰る場所があるんじゃないかと感じている人。

ー 生きている意味なんて、そんなに簡単に普通の言葉で説明できるわけがないと思っている人。

ー どこかに帰属していて、所属していて、しっかりと守られていて、保険をかけられていて、安心して生きていけるなんてハナから信じていない人。そんなことがあるわけがないと疑ってしまう人。

ー 常にグラグラ揺れていて、そんな場所に必死にしがみついている、生きているってそういうことじゃないかと確信をしている人。

ー いつも何か曖昧な不安にとらわれていて、そこからどうしても逃れることができない人 

 そういう人が惹かれるものが、詩なんじゃないか。

 

 居場所を持たない人が惹かれるものが詩。だから詩それ自身にも居場所がない。それでも何か自分を託すものに手を伸ばしたい。その、伸ばした腕が詩を作るということなんじゃないだろうか。

 だから、詩を書くっていうのは、何かを明らかにすることではなくて、常に自分の居場所について質問をすること。自分はどこにいて、どうしたら一生をなんとか生きつづけていけるかを問うこと。生きるための賢い方法なんてあるわけがない。なにかが明確に説明されることなんてありえない。揺れる自分、そこに、揺れていることに、基点を持つ。そういう人が詩に惹かれる。

 詩と曖昧さって、だからすごく近い。それでもその曖昧さの中で、せめて自分の書いている詩の位置くらいはしっかりと見つめていたい。こんなのが書けているから自分の詩はこんな詩なんだと、いつも感じているだけでは、なんとも悲しい。自分の書いているものくらいしっかりと見てあげる。自己を見つめる。そうでないと、放ったらかしにしていると、だんだん自分の詩そのものが見えなくなる。もともと、見えないものを書こうとしているのが詩、その詩自体が見えなくなる。

 詩って、いうまでもなくいろいろある。現代詩手帖に載っているような詩、ネット詩、思想詩、子供の詩、体験を描いた詩。

 だからといって、いろいろあるんだなと漠然と思っているだけじゃなんにもならない。そんないろいろを、思い切って分類してみる。無意識にいろんな詩があるなと思っているだけではどこへも向かない。己自身を知ることが大切。こういうふうに分類されて、自分が書いている詩は、ここらあたりなんだなと知る。

 いろんな指標があると思うけど、これはそのうちの1つ。例えば、一枚の紙を用意して、それを四分割する。つまり、縦線と横線を一本ずつ中央に引く。そうすると紙は右上と右下と左上と左下の4つの領域に分かれる。

 その縦の軸を、詩の意味が明確であるか、あるいは意図して意味から遠ざかろうとしているかの目盛りとして使う。上に行くほど、詩の意味が明確。

 横軸は、言葉や連がしっかりとつながっているか、背き合っているかの指標。つまり右に行くほど言葉や連がしっかりと手を繋いでいる。

詩の分類図

 で、今日の参加者で、4つの領域のどこにだれが入るかを見てみよう。もちろん、どこにいるから優れているとか劣っているとかの話ではない。単に違いの話。

 

(1)まず右上の領域。つまり詩の意味もしっかりとわかるし、言葉や連もつながっている詩。こういう詩を書いているのは、柴田さんや宮尾さん。

(2)右下の領域。意味は遠ざけていて、でも言葉や連はつながっている詩。ここで言うなら坂多さんや鈴木さん。

(3)3つ目。意味は取りづらいし言葉も連も素直にはつながっていない。これは、廿楽さんや谷口さん、

(4) 4つ目の領域。言葉や連はつながっていないんだけど意味は明らか。そういう詩を書いている人はここにはいなさそう。というか、これは不可能かも。

 それから、長嶋さんや為平さんは、(1)と(2)と(3)の中間に位置しているかもしれない。

 つまり、何が言いたいかっていうと、この表の中で、自分の詩はどこにいるんだろうと知っといたほうがいいよということ。それから、今までに惹かれた詩人はどこらあたりに位置していて、読まず嫌いをしている詩人はどこにいるんだろうと考えてみる。

 自分と同じ領域にいる詩人からは、じかにいろんなことを学ぶことができるし、遠い場所にいる詩人からは、停滞する自分の詩を変えたいと思うその行く先のヒントを与えてくれる。

 話が長くなったから今日はおしまい。生きている日々が曖昧に感じられるから詩を書く。でも、曖昧に安住していては進歩しないよということ。曖昧に立ち向かうためには、しっかりと目を開いておく必要がある。

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