

2019年10月の話
頭のいい人は優れた詩を書くことができる
松下育男
話はいきなり変なところから始まりますが
親鸞っていう人がいましたね
僕の家は浄土真宗なんですけど
うちの親は
世間並みにはお寺に行くけど
それほど宗教に対して熱心な人ではなかった
その親の子である僕も
自然とそうなりました
法事以外はお寺にはいかない
だから浄土真宗だからどうこうというのではなくて
僕が言いたいのは
親鸞っていう一人の人がいました
っていうことだけです
ところで
詩を読むって
もちろんいろんな詩があって
いろんな読み方があるんですけど
そのうちのひとつは
読んでいて
そうだよな
確かにそうだな
と共感することによる感動ということがありますね
つまりは格言とか名言、アフォリズムを読んだ時に
なるほどうまいことを言うな
とか
言われてみればそうだったなとか
そういう感じです
そういう感じも
詩の中のぐっとくる感じ方と共通するものがあるわけです
萩原朔太郎や寺山修司がアフォリズム風なものを書いていたのも
詩と近いものだからなのかなと思うんです
で
何が言いたいかっていうと
親鸞って
なかなかいいことを言っているなと
思って
まあ
今さらなんですけど
それで
別に今日は親鸞の解説をするつもりはないんですけど
ひとつだけ
誰でも知っている一番有名な言葉を
ここに出させてもらおうかと思うんです
ほかでもない
「歎異抄」の中の
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉です
歎異抄というのは
親鸞が言った言葉をお弟子さんが書きとめたもので
実は親鸞はこんなことを言っていない
これはお弟子さんの創作だという説もあるらしいんですけど
まあそれはともかく
こういう言葉があるわけです
意味は
「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。 」というものです。
ひねった言い方です
普通だったら
「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる。 」というところですね。
だれもが普通に考えるのとは
反対の方向から言っています
逆説的です
そういう意味でも
現代詩の作法に則った言葉ともいえます
逆方向から物事を見ると
真実が垣間見えてしまうということです
最近
なぜかこの言葉が繰り返し僕の頭の中をめぐっているんです
で
会社を辞めてから
このところほぼ毎日
詩のことで占められているわけですから
詩のことを考えているうちに
親鸞のこの言葉に行き着いたんです
つまり
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
これって
詩にも同じことが言えるんじゃないかなって
気づいたんです
どういうことかというと
この言葉を
詩を書く人に移し替えてみると
こんなふうに言い換えることができます
「頭のいい人は優れた詩を書くことができる、
まして頭の悪い人に優れた詩が書けないわけがない」
ということです
ちょっと考えてみてください
思い当たるところがありませんか?
「頭のいい人は優れた詩を書くことができる、
まして頭の悪い人に優れた詩が書けないわけがない」
なんかどこかわかるような気がしますね
別の言い方をするなら
「才能のある人は優れた詩を書くことができる、
まして才能のない人に優れた詩が書けないわけがない」
あるいはこうも言えます
「要領よく生きられる人は優れた詩を書くことができる、
まして何をやってもダメな人に優れた詩が書けないわけがない」
もっと言うなら
「お金持ちは優れた詩を書くことができる、
まして貧しい人に優れた詩が書けないわけがない」
「幸せな人は優れた詩を書くことができる、
まして不幸せな人に優れた詩が書けないわけがない」
「何ものも失うことのない人には優れた詩が書ける
まして大切なものを失った人に優れた詩が書けないわけがない」
きりがないのでここらでやめておきますが
なにも
すべてを逆説的に言えばいいというものではないんですけど
この感じかたというのは
僕の中で
それなりに納得がゆくものなんです
「頭のいい人は優れた詩を書くことができる、
まして頭の悪い人に優れた詩が書けないわけがない」
頭の悪い人
っていうと
ちょっと語弊があるかも知れないんですけど
ここで言う頭の悪い人っていうのは
時間があるのに本をあまり読まないし
勉強にも身が入らない
何をやってもものにならない
俗に言うダメな人
そういう人のことを言っているのですが
そういう人って
自分はダメだ
と
いつも世の中をすねた心で見上げている
その
世の中を見上げる恨めしげなまなざしこそが
そのすねて
劣等感にさいなまれて
なんとかしようとしてもできないもどかしさが
詩に繋がってゆく
どうして自分は人並みにできないんだろうと
絶望したり
その絶望の中にはもしかして
何か拾えるものがないだろうかと
勝手な希望を持ってみたり
生きていることついて
様々に
ほかの人よりも考えてしまう
その考えが詩に繋がってゆく
そう思うんです
一見
なんの役にも立ちそうにない単なる物思いが
詩を作るためには
大切な源になっているのではないか
詩を作る厳かな悲しみになっているんじゃないか
生まれ出たことの悲しみに通じているんじゃないかって
思うわけです
これって
結構
親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の根本思想の考え方から
さほどずれていないようにも
思えるんです
自分は
人よりも秀でているという
思い上がった意識を捨てられないで
自分のダメさに気づいていない人は救われないんだって
言っているわけですから
こないだも喫茶店で原稿を書いていたら
近くの席に僕よりもちょっとトシをとった70代くらいの男の人が五人
お茶を飲みながら話をしていた
どうして男の年よりって
声が大きいんだろうと思います
僕は京都大学を出ているとか
そうかこの中で国立じゃないのは君だけかとか
学歴のことを大きな声で話をしている
七十過ぎてもう学歴なんかどうでもいいと
ぼくなんか思うんだけど
それからどれほどすごい仕事をしてきたとか
一時は部下が三百人いたとか
五人ともずっと自慢話をしていた
大きい声で
たぶんその喫茶店にいるみんなに聴いてもらいたいんだろうなと
思っていた
たぶん
ひとりひとりは
悪いこともせずに地道に生きてきたんだと思う
むしろ人生の成功者の五人かも知れない
でもね
トシをとると
何を人に語るべきかを
つい見失う
自分も気をつけなければなと
思った
自慢を始めたら
おしまいなんだって
その時にも
思い出したのね
その言葉を
それから
こないだ朝日新聞に
長年引きこもっていた人が書いた詩が載っていました
引きこもっていた人が詩が書ける
っていうのは
全然驚きじゃないんです
だって
特に生産的なことをしているわけでもなく
ずっと自分の奥底に潜って
考えているわけですから
それって
まさに詩人のやっていることと変わりがないんです
ひきこもりの人に詩が書けないわけがない
9月30日の朝刊の生活欄にのっていた記事です
「「ふつう」にならなきゃいけないの?」という記事です
「20年間ほぼ外に出られない男性 詩で問いかけ」
という副題もついています
そこには2篇の詩が載っていて
そのうちのひとつを読んでみましょう
ふつう
みんながぼくらにいってくる
「ふつうになれ」っていってくる
ぼくらは「ふつう」になれないのに
「ふつう」というギプスのせいで
ぼくらはいっぱいきずついて
ひとりぼっちでないてきた
「かわれ」「かわれ」ってみんながさ
ぼくらにいってくるけどさ
ほんとにかわらなきゃいけないのは
ほんとにぼくらのほうなの?
ぼくらは「ふつう」にとどかないのに
という詩なんですけど
この詩について
詩を読み慣れている人は
いろいろ言いたいことはあると思います
自分を締めつけてくるものをギプスに喩えて
自分がきずつく
というのは
とても単純な比喩です
また
ここで訴えていることも
自分の立場だけからの訴えで
非常に一方的で
まわりの人の考えに対する想像力が
足りていないようにも見えます
例えば
この詩を現代詩手帖に投稿しても
間違いなく入選しません
でもね
この詩を読んで
ぐっとくる読者層がいるっていうことも
本当のことですね
つまり
単純な比喩だからわかりやすいし
相手の立場なんて切り捨てなければ
一篇の詩はでき上がらないという考え方ですね
そういう考え方もある
また
この詩が書かれることによって
共感する人や
救われている人がいるのだし
それからなによりも
この作者自身が
救われている部分があるわけです
難しい詩を書いて苦しんで悩んで生活しているよりも
書きたい詩を書いて救われているほうが
よっぽど賢いと思います
ぼくは別に
この詩を甘やかそうとは思っていない
作品としてみれば
もっと深く考えられてもいいし
もっと言葉が選ばれてもいい
でも
もし
もっと深く考えられて
もっと言葉が選ばれて
この詩が書き換えられたら
それまでぐっときていた読者が
この詩がわからなくなる可能性があります
もし
もっと深く考えられて
もっと言葉が選ばれてこの詩が書き換えられたら
この作者は
詩を書くことに魅力を感じることができなくなる可能性があります
詩を書かなくなります
詩でさえ書かなくなります
僕自身が
これまで長い間親しんできた詩を基にして
詩とはこういうものだと
決めつけているところがあります
それで
その決めつけによって
詩の良し悪しを判断してしまう傾向があります
でも
自分の判断がどこまで正しいかなんて
だれにもわからない
あるいは
正しい判断なんて
もともとどこにもなくて
妙な力関係があるだけなのかもしれない
僕が詩と考えるものは
詩の中の
ほんの一部でしかない
自分が書いているものが
詩だと
考えるのはかまわない
でももっといろんな詩があってもいい
それぞれの詩に
それぞれの読者がいていい
あたりまえのことですけど
そう思うんです
それで
それぞれの詩に
上等も下等もない
ある一つの計りかたでは
うまいへたの違いがあるかも知れないけど
そのうまいへたは
必ずしもその詩の価値に
そのまま影響するものではない
そう思うんです
詩を書くものは
もっと広く詩を
見ていてあげたい
もっとさまざまに
感じられるようになっていたい
と
ちょっと話がそれてしまったんで
もとにもどします
(ダメな人というのは)
で
その引きこもりの人は
引きこもるだけの個別の理由があったのでしょうから
僕がとやかく言う筋合いのものではないんです
僕がさっき言っていた
そのダメな人というのは
ほかの誰でもない
僕のことなわけです
小さい頃から
なんでもっと熱心に物事に集中できないんだろうとか
勉強がもっとできないんだろうとか
ずっと劣等感のうちにいたわけです
それで
詩を書いてはいたんですけど
詩人って
大学の先生とか
学者とか
いかにも頭のよさそうな人がたくさんいて
評論なんかを読んでも
なかなか理解が届かないものがたくさんある
雑誌に載っている詩を読んでも
むずかしい詩がたくさんあって
僕なんかの書いている幼稚でわかりやすくて
だれにでも書けそうな詩は
書く意味がないんじゃないかと
いつも苦しんでいました
それでも書き続けていたのは
無理せずに自然と湧き出てきていたものだし
これ以外に自分はいないと思っていたからなんです
やっぱり
生きることに
どこか鈍感なところがあったからなのかなと思うのです
(よい読者ではない)
つまり僕は
これまで
本もあまり読まなかったし
そういう意味で
詩の
よい読者ではなかったっていうことになる
ということは
自分は人の書いたものに対して悪い読者なのに
自分の書いた詩に対してばかり
みんなにいい読者であってほしいっていうのは
あまりに身勝手な考え方であって
だから僕は
そんなことは考えないようにしています
僕が
本を読むのが面倒だなと思っているように
多くの読者は
僕の書いた詩なんて面倒で読みたくないだろうと思っています
そう確信しています
読者に対しては
昔から
根っから悲観的でした
で
その
自分の詩を読みたくもない人に
どうやって少しでも読んでもらえるようになるだろうか
って
子供の頃から考えてきました
そうすると
詩を読むのを面倒くさがっている人でも
なんとか目を通してもらえるような詩ができないかと
常に考えているようになります
常に考えていると
僕の書く詩は
不思議なことにだんだんそっちに近づいてくる
そうなってくる
少しでも読んでもらえるための詩に近づいてくる
進化の法則みたいなものです
きりんの首が長くなったのと同じです
自分の詩を読んでもらえるようにするためには
読みやすくなるためには
どうしたらいいだろう
と考えているうちに
僕の詩の
一行の長さが少しずつ短くなっていった
キリンの首と逆ですね
読む人が大変な思いをしなくてもいいような
そんな短さの詩になってきた
ぼくの詩の一行が短いというのは
僕の中では
苦しんでそうなった詩の進化の一種なわけなんです
ほかにも読んでもらうための工夫はいろいろとしました
一ページの中に
文字の埋まっていない空白を広くしたり
難しい漢語はいやがる人がいるだろうから
ひらがなを多用したり
抽象的な言葉は極力使うまいとか
語りかけるように書いてみようとか
凝った構文は使うまいとしてみたり
分りづらくなるから比喩は少なくしようとしたり
文章の枝葉のような形容詞や副詞はできるだけ使うまいとしたり
言葉の意味はいつも使っているそのままの意味を尊重しようとか
それはそれは涙ぐましい進化への道のりをたどったわけです
つまり
僕は本をあまり読まないから
本を読まない人の気持ちがよく分るんです
だから
僕のような
怠惰な人でも読んでみようと思える詩を
書こうとしてきたわけです
で
自分が書きたいという詩の内容そのものも
その
詩を読みやすくするっていう行為と
どこかで繋がってくる
どういうふうに繋がっているかって言うと
そういう
ダメな自分がこの世で生きていました
っていうそういう内容の詩を
書いてきた
まさにそれが
掛け値なしの自分なのだし
そこ以外に
スカシタ顔をして詩なんか書けないと思った
賢く振る舞うような詩は書けない
人を教え諭すような詩は書けない
人を煙に巻くような詩は書きたくはない
あからさまで
僕の生きていることが全部ばれてしまうような
みんなと同じようなことを考えて生きているんですよ
退屈なことばかり考えているんですよ
と
そういうことしか書けない
つまりは
「頭のいい人は優れた詩を書くことができる、
まして僕のように頭の悪い人に優れた詩が書けないわけがない」という
親鸞もどきの
この言葉に
今まで
すがるようにして書いてきたわけです