

2019年4月の話(池袋「こじんまりとした詩の教室」)
詩の一番の上達法
松下育男
突然だけど
人前で話をするって
緊張しますね
そういうのが好きですっていう人が
いないわけではないけど
それほどにはいない
たいていの人はいやがる
パーティーなんかでも
あとで自分が前へ出て挨拶しなければならない時って
挨拶が終わるまで
食事もゆったり食べていられない
それが普通だと思う
僕もスピーチはいやです
これってね
日本人だけの問題ではなくて
英語圏の人も
スピーチってすごく緊張する
学校でそれなりの訓練を受けていても
ナーバスになる
人前で話をするって
結局
みんな得意なわけじゃない
ただ
アメリカの会社って
人前でスピーチをする機会が結構あって
苦手だ
ということで
すましていられないわけ
ではどうするかというと
やれることは一つしかない
練習をする
それだけ
唯一の解決法は
何度も練習をする
優れた話し手は
人前で話をするときには必ず準備をして
しっかりと練習をする
書いたものを丹念に見直して
それからその原稿を
実際に口に出して練習をする
文字を目で追っているときには
自然な文章や論理に見えていても
いざ口に出すと
どうも理屈が伝わりにくいということがある
あるいは
発音しずらい
うまく言えない
ということが実際にある
文章が長すぎたり
言葉の繋がりが読みづらかったりというのは
実際に声に出して読んでみなければ
わからない
日本語なのだから
もう何十年も話している言語なのだから
文字に書いておけば
あとはそれを声に出して読むだけだし
そんなの簡単だと
タカをくくっていたら大間違い
日本人にとっても
日本語を話すのは
容易ではないことがわかる
それをしっかりと
認識しておかなければならない
母国語って
そんなに優しくしてはくれない
あるとき急に
よそよそしくなる
言葉って
家族のようなものだと思っていたら
大間違い
実は
となりの家の人なんだ
だから
礼儀を尽くして接しないと
痛い目にあう
(S大臣)
こんなことを考えたのは
なんでかっていうと
S大臣の
失言や言い間違いをテレビで見ていたからなの
もう前大臣だけど
オリンピックパラリンピック担当大臣なのに
就任の挨拶で
パラリンピックが言えなくて
パラピ パラピ
と言ってしまった人
あれって
上がってしまって
パラリンピックを
オリンピックのオリンをパラに変えただけの言葉として受け取ってしまった
無意識の勘違いが
どこかにあったんだと思う
だからパラのあとは
ピックと言いたくなってしまう
パラピックと言いたくなってしまう
あれを見て多くの人は
この人はどうかしているんじゃないかとか
いろいろ言っていたけど
でも
ああいうことって
Sさんじゃなくっても
ありうるんですね
僕だって
やりかねない
別にSさんを擁護するつもりは
全くないんだけど
それまで口に出して言ってこなかった母国語って
いざとなったら
それも公の場で
人前でちょっと上がったりしている時には
言えなくなるということが
あり得るんですね
日本語なのに
発音できないということが
充分ありうるんです
だから
事前に何回か発音していれば
ああいったことは避けられたはずなんです
言葉ってね
母国語って
自分のものだと思ったら大間違い
分っているのは
表面のほんの少しだけなの
日常の挨拶や
コミュニケーションでつかわれている日本語って
言葉が本来持っている可能性の
ほんの少しだけしかつかっていない
よく
英会話には
中学生の英語の教科書をマスターすれば充分
って言われることがあって
あれって
英語だけではないわけね
日本語も
たぶん外国でつかっている日本語教本の
基礎を学べば
事足りるわけ
母国語なのに
基礎の部分しかつかわないで生活をしている
それで一生を終えることだってできる
言葉の可能性のほんの少ししかつかわないで
毎日を過ごしている
僕はね
自分が日本語を話せますなんて
恥ずかしくて言えない
別にね
辞書を読んで語彙を増やせとか
日本語の文法を学んだほうがいいとか
言っているわけではないの
なんでもない言葉や単語の姿を
しっかりと見つめてあげてほしいと
言っているだけ
いっこいっこの言葉を
尊重して
味わって
感じて
生きていきたいっていう
ことなわけ
努力して手を伸ばすべきは
外側へではなくて
内側へなの
だから
のこりの可能性を探して
感じて
つかおうと意識すれば
さまざまな詩が書けるわけ
詩はね
日本語で書くけれども
そういった
おろそかで
もったいなく
つかわれている言葉に
しっかりその力を発揮させてあげるものなんだと思う
日々
どんな言葉にも
アンテナをはっていることが大切
どんな言葉にも慣れてしまわない
言葉を無意識になんてつかわない
あなたたちは詩人なんだから
言葉に敏感になっていてほしい
どんな言葉にも
いつも敏感で
びくびくして
わくわくしていてほしい
毎日いろんなことが起きるけど
その起きたことは
言葉の面からみたらどうなんだろうって
考える習慣を付ける
たとえば今話をした
大臣の失言もそう
単にひどいなと
思うんではなくて
その言葉について考えてみる
そこから出てくる自分にとっての言葉の問題は
何かって考える習慣をつける
人と喧嘩をしたときに発した
残酷な言葉もそう
無礼な人から言われた
やりきれない言葉もそう
やさしい人の
ささやきもそう
いいことがあったときのはしゃいだ自分は
どんな言葉を発するだろう
退屈で仕方がないときに
頭の中を巡っているのはどんな言葉だろう
すべてが
感じる材料になるし
言葉の可能性を探るトッカカリになる
新聞を読むのも
映画を観るのも
言葉の面からどうかを感じとる
映画なんて
2時間もそれに集中しているんだから
必ずいろんなことを感じて
いろんな言葉が自分の中に飛び交っているはず
言葉でも
言葉以前の感じ方でも
その映画を観て得たものが
そのあとで
1篇の詩にならない方がおかしい
何かを感じて
考えたら
詩を作ってみる
人に見せる必要はない
でも
とにかく何かを感じたら
詩を作ってみる
たくさん作ることによって
自分の詩から学んでゆくことが
あるはずなの
人から学ぶことも大切だけど
自分が書いて書いて
書いて書いて
思うようにならなくて
だったらどうしようと考えて
また書いて書いて
書いて書いて
っていうのが
詩の一番の上達法なの
日本語は
わたしだけのものではない
だから人に通じるんだけど
でも
わたしだけの日本語
という部分を探す
つくりだす
たくさん書いているうちに
そういう言葉が集まってくる
この言葉は
自分が初めてつかうのだと思う
朝起きたら
その日初めて耳に飛び込んでくる言葉
その日初めて目に入ってくる文字
そういうものに
いつもドキドキして向かい合いたい
そうしている内に
自分だけの言葉や
感じ方が育ってくる
日本語を
たかをくくってつかわない
ひと言ひと言
個別包装を開くように
言葉を受け入れることが大切だと思う
それが
詩人のなすべきことだと思う