top of page
2019年2月の話
 
​大野新の詩について
​    
​松下育男

 

今日は大野新さんの話をしようと思っています。先月の山内清さんに続いて関西の詩人の話です。関西だから関東だからと別に区分けする必要もないと思うんだけど、結果として関西の詩人、あるいは関西から出てきた詩人って僕の敬愛している人が多い。何か理由があるんだろうけどはっきりとは言いあらわせない。

 

大野新さんの詩を読みながら、おもに、詩にとっての一行と一篇ってなんだろう。その関係性について。詩を受け止めるというのは一行の積み重ねなんだろうか、それとも一篇まるごとなんだろうか。そんなところにも触れられればと思います。それから暗喩の力というか効果も見ていきたいと思います。

 

(北原白秋)

 

まずは先日行った映画の話から始めたいと思います。「この道」っていう映画に行きました。誰か観た人いますか?北原白秋と山田耕筰のことを描いた映画です。週日の昼間だからすいていました。観ていたのは10人ほど。小さな劇場ではあったけどそれでもがらがらの入りでした。

 

映画の内容はまあ、予想通りというかそれほどの驚きはなかったんですけど、でもちょっと面白いエピソードがひとつあった。

 

当時、文芸雑誌に文壇の番付を載せていたんですね。番付というよりも人気投票かな。詩の分野では蒲原有明や石川啄木をおさえて北原白秋がダントツの一位なの。でもその雑誌というのが、実は北原白秋と関係があって白秋の思い通りになる雑誌で、自分で勝手に得票数を水増しできるわけ。

 

2位以下は3千票位なのに白秋だけは1万票を超えている。自分で勝手に票を動かせるわけだからなんとでもなるわけ。白秋としては、自分が日本の詩の世界を引っ張っているのだし、そうするのが当たり前であって、だったら勢いをつけて1万票位は欲しいということで勝手に得票数を増やしてしまっている。実に、なんとも勝手な理屈をつけている。

 

映画の内容がどこまでホントの話なのか分らないけど、昔のことだから、なんかありそうな話だなと思って観ていた。で、当時の文学青年なんかは、そんな裏事情を知らないから純粋な気持ちで、「一万票か、白秋ってすごいな」ってあこがれていたんだろうと思う。

 

確かにこれはどうでもいいエピソードなんだけど、詩の世界って、どちらかというとそういう競争や名誉や人気やというところからは離れたジャンルなのかなと思う。

 

詩の世界で有名になったところで何か特別なことがあるわけでもなく、収入が増えるわけでもなく、だからこそさっぱりしていていいなと僕なんか思うわけ。他の世界に比べたら、権威をひけらかしたり威張っている人は少ない。だから比較的清潔な人たちの集まりなんだろうと思う。

 

でも、権威から遠い集まりだからこそ、その中で抜きんでたいという気持ちを持った人は出てくるだろうし、それは人の集まりだから仕方がないのかなと思う。

もちろん詩をしっかり書くのが目的であるわけだけど、だからって有名になりたいという気持ちを無理におさえつける必要はないと思う。そういう気持ちが創作意欲を活気づけてくれるものであれば、べつに何を願っていたって人に迷惑をかけさえしなければ問題はない。

 

会社でも同じで、同じ能力の二人がいたら出世したいという気持ちの大きな人の方が先に出世する。そういうものだと思う。

 

ただね、言うまでもなく、あまりにも自分が自分がというのはまずい。やっぱり何のために詩を書いているかというところに立ち戻ったほうがいい。

 

少なくとも自分でない人のすぐれた詩をいつでもしっかり受け止められる姿勢だけは失わないようにしておく。そうすれば自分を見失うことはないと思う。

 

いつも言うことだけど、詩に関わっていて一番大切なのは詩を書き上げることの喜び。ものを作るときの興奮なのだということ。手元にあるのだということ。でき上がってからのできごとはそれほどの事じゃない。

 

そのことを忘れないでやっていかないと、なぜ詩を書いているかの根本のところを失うことになる。

 

人って簡単に自分を見失うから。

 

(マイナーポエット)

 

マイナーポエットという言葉があるけど、白秋は自分がマイナーでありたいなんて思いもしなかっただろうと思う。

 

詩自体がマイナーなジャンルなわけで、その中でのマイナーポエットというのはどういう人のことなんだろう。ジャンルとしてのマイナーと、その中での個人としてのマイナーと二重のマイナーに包まれて生きている。

 

そういう人は、仮に詩壇の人気投票があったとしても、決して上位になんかランクされることはない。

 

でも、作りあげている詩は一級品。ここが大事なところね。分る人には分る。知っている人は知っている。そういう詩人なのかなと思う。

 

今日の話の大野新という人は、もちろん白秋みたいに詩の世界の大通りを大手を振って歩こうなんて思ってもいなかった。結局は現実にはマイナーでは終わらなかったけど、でも自分ではマイナーポエットだと思っていた。

 

(詩の背骨)

 

こないだフェイスブックに書いたんだけど、日本の詩の背骨は谷川俊太郎と清水哲男と辻征夫なのではないかと思うわけ。

 

もちろん詩はね、さまざまでいいと思う。内容は勝手だし書きかたも人それぞれ。

 

なにもみんなが谷川さんや清水さんのような詩を書くべきだなんて言っていない。

 

自分が書ける詩はひとつだけだけど、読み手としてはできるだけ広範囲にすぐれた詩に接していたい。だからどんな詩も受け止めていきたいとは思うんだけど、それでも自分の中に、詩はこうでありたい、ここだけは受け継いでいってもらいたいという、時代や状況を超えた本質ってあると思うわけ。

 

多様性の中の核。揺るぎない魅力。その本質のところを書いているのがこの3人なのかなと僕は感じる。

 

で、この中の清水哲男さんなんだけど、あとの二人、谷川さん辻さんとはちょっと違う。

 

谷川さんと辻さんの詩は、色のついていない言葉そのものでできている、言葉自体には細工をしていない。色付けをしていない。

 

でも清水さんの詩は、なんていうか、言い方が難しくて誤解をされてしまうかも知れないけど、言葉そのものを独自なものに作りあげている。淡い色をつけている。特殊な立ち姿をしている。そんな感じがする。

 

それはなぜかって考えると、もちろん詩人間の個性の差異によるものではあるんだけど、それだけではなくて、東京の文化圏から出てきた色のついていない詩人(内面の東京語とでも言えるかな)と、東京から離れた京都で書き始めた淡く色付けした言葉の詩人(内面の地方語)の違いでもあるのかなと思う。
 
というのも、当時の京都で詩を書いていた人が何人かいて、その人たちの詩は清水さんの詩と共通したものを持っている。京都独特の詩という感じがする。言葉の立ち居振る舞い。背筋の伸びかた。なよなよしていない。そういう共通項のある詩人が何人かいて、日本の現代詩の中に大切なものを作りあげていた。

 

大野新さんもその内の一人だった。というよりも大野さんはその共通項の源であったような気がする。

 

ここでひとつ正津勉さんの文章を紹介したいと思うんだけど、その京都から生まれた詩の環境を書いたものです。ちょっと長いけど読んでみます。僕が今言ったことをもっとしっかり書いているから。

 

 

正津勉「京都詩人傳」より

 

「かつて京都の街にひとつの小さな印刷屋があった、(略)その名は双林プリント。その町工場のおやじが山前実治(やまさきさねはる)、そこの印刷工のひとり、ながい闘病生活の果ての死にぞこないの大野新。(略)端的にいえば、これが京都詩壇のはじまりであり終わりである。この物語をぬきにして京都詩壇はかんがえられないのではないか。(略)双林プリントは京都における詩的戦略の要衝であり、そこに大野新という参謀がいた、そして、いる。この小さな要衝こそ、詩と詩人たちの縁の糸の結び目であり、交友形成の場であったのだ」
 大野新。たちまちその詩と人となりに惹き付けられた。大野は、なるほどわたしらの参謀にふさわしくあった。これより清水昶とこの大野、(略)清水哲男、これらの先達を導き手として、こちらはおずおずと詩の世界に入ってゆくのである。
 (略)
どういったらいいか、そこには閉鎖京都系とでもいうほかない、なんともちょっと、あらわしようのない詩的交友圏がある、ということである。もっといってよければ、どこかでその詩の考え方もがんとして、ゆずらないようなところが。
 たとえばさきの第一線の誰彼に熱くなる。そのいっぽうで大野や交友圏の作にふれる。それはどういうか同じ詩であるにはあるのだが、どこがどうとはなく違う別のもののようだった。
 (後略)

 

 

こういう文章なんですけど、東京の詩壇とはどこがどう違うとは言えないけど京都には別の詩壇があったと書いている。

 

僕なんか、清水哲男さんの詩を読んでいると、いつも頭にちらつく人がいるわけね。清水さんの詩の向こうでしたたかな詩をこつこつと書いている人。暗喩を自在に使いこなす人。正津さんの言葉を借りれば「がんとして、ゆずらないような」詩。京都の詩人の奥底というか、根元のように感じる人。それが僕にとっては大野新なわけ。

 

東京にたくさんのさまざまな詩人が現れても、揺るぎなく詩を確立して書いている人が京都/滋賀にいた。それが大野新なわけ。

 

東京の詩壇はまさにいつも多様性に満ちていて渾沌としている。読み手もその中で誰がすぐれているのかを自分で探さなければならない。

 

でも当時の京都/滋賀の詩壇は、大野新や清水哲男の作品から詩とはこのようなものだという姿が明確に示されていて、それに付いていけば間違いがないというところがあった。

 

言い方を変えれば、今の現代詩が持っている多様であるがゆえに中心が曖昧であるという病いを、すでに克服していたのが当時の京都/滋賀詩壇だったのではないか。

 

(大野新を知ったのは)

 

僕が初めて大野新のことを知ったのは、1978年のこと。なんで年度まで覚えているかというと、それには理由があって、1977年に出た大野さんの詩集『家』を読んだから。

 

なんで読んだのかというと、この詩集がこの年にH氏賞を獲ったから。H氏賞をとった詩集を当時全部読んでいたかというとそうではなくて、でもどうしてこの年には読んだかというと、僕の最初の詩集もその年の候補の一冊に入っていたから。

 

当時はH氏賞の特集号を「詩学」が出していて、候補の一人だった僕のところにも「詩学」が送られてきた。だから読んでみたわけ。僕は賞に落ちたけど、では受賞作はどんな詩なんだろうと思って読んだ。

 

詩集からの何篇かがそこには載っていて、正直、読みながらいきなり圧倒された。すごいな。こんな詩人がいたんだって思った。

 

言葉の端々から詩情がにじみ出ていて、どんなひと言もおろそかに使われてはいない。どの単語も震えているように見えた。重いものを背負って泣いているように見えた。目を瞠るようにして読んだ。こんなにすごい詩集に僕の詩が敵うわけがないと思った。

 

(どんな人か)

 

大野新ってどういう人かっていうと、もちろん現代詩文庫や全詩集も出ているから容易に調べることができる。結局はマイナーな詩人ではなくなってしまったから今でも読もうと思えばいくらでも読める。もっと簡単に調べたければネットで検索すればかなりのことがわかる。

 

特に苗村吉昭さんが「交野が原」に10回に亘って連載した「大野新ノート」がネットにあげられているからぜひ読んでもらいたい。すぐれた文章だし、苗村さんの思いの丈が折り込まれている。大野さんのことがかなりわかると思う。今日の僕の話もその苗村さんの文章に拠るところが多い。

 

経歴をざっと見てみると大野さんは
1928年に韓国で生まれている。
敗戦で滋賀県に引き揚げてきて
肺結核のために京大法学部を中退。
療養中から詩作を始めて
1962年同人誌「ノッポとチビ」を清水哲男、有馬敲らと創刊した。ここで清水さんと接触している。
その頃石原吉郎、天野忠らと交流している。なんともすごい人たちの中にいた。
当時の詩集を出す間隔は7年か8年おき。まあ、普通かな。
詩集に『階段』『藁のひかり』『大野新詩集』があって、その後
1977年の詩集『家』でH氏賞。この詩集で僕は大野さんの詩を知った。
1993年に最後の詩集『乾季のおわり』を出す。
2010年に亡くなっている

 

詩集ではないけれども大野さんが最後に出した本は『人間慕情 ―滋賀の百人』という本で、これも苗村さんの文章で知ったんだけど、滋賀県の100人の人たちと大野さんが対談をして文章にしたもの。

 

その第1回目のゲストが藤本直規さんで、お医者さんなんだけど詩人で当時この人も『別れの準備』という詩集でH氏賞をとったところだった。

 

ちょっとした因縁話ではあるわけだけど、この詩集に推薦文を書いているのが大野さんで、それから僕はこの年のH氏賞の選考委員になっていて、ちょうどその時に選考者の一人だった。
 
(始めての詩集)

 

大野さんの話に戻ります。今日も何篇かの詩を読んでみたいと思っています。これはすべて詩集『家』からの詩篇。

 

普通詩人って、書き始めのころが一番輝いていて、つまりはなんだかんだと言っても第一詩集が最もすぐれているというのが普通なんだけど、僕にとっての大野新はそうではない。

 

もちろん初期の詩もすぐれてはいるんだけど、それにも増してこの『家』はすごい。それは多分に僕が大野さんの詩に出会った最初の詩集だから思い入れが深くてそう感じてしまうのかも知れない。

 

そうであったとしても、ずっと書き続けてきた詩人が、そのレベルを落とさずにさらに乗り越えるものを書けるって半端じゃない。

 

つまりはさっき言った京都/滋賀詩壇の揺るぎない詩というものの確信が根付いているからなんじゃないかと思う。たまたますぐれた詩が書けたというのではなくてきちんとした土台があってそこに詩を乗せている。そんな感じがする。

ともかく1篇読んでみます。

 

 

「母」     大野新

指の爪に
のぼる白い月をみに
死んだ母がはいってくる
そして私のいっぽんの指がひかるのだ
指を垂直にたてて 
深夜 
梁をあげたばかりの 
建てかけの家を 
くぐってあるく 
母よ 
いまは 
干潟だ 
水もしろい烏賊もひいて  
遠い月のものだ 
あの月のさらにかすかな反照として 
透いた家のなかに 
あなたと私が 
います

 

☆ 

 

大野さんの詩のすごいところは、部分が全体を覆っているということなの。

どういうことかというと、全体で何を言おうとしているかということが予め決められているようには見えなくて、部分の鮮やかなイメージが全体で何を言わんとしているかをおのずと決めてくれるということ。

 

この詩で言うなら、最初の「指の爪に/のぼる白い月」だけでぼくなんかもうやられてしまう。

 

もうあたまの中には指が一本すっくと立っていてその爪にそって月が上ってゆく図に占領されてしまう。

 

その指は月の光りに照らされていて光っている。指の向こうには建てかけの家の柱が指と同じように垂直に立っている。

 

家を建てるというのは家族をそこに住まわせてしっかりと結びつけること。その家族の中心には母親というものがいる。ただこの家はまだ建てかけで、つまりは透き通った家であって確固とした家族ができ上がっているわけではない。

 

風の通る梁だけの建物の中にいることは何かに守られているわけではなくて、干潟に放り出されて寒く立ち尽くしていることでしかない。

 

母親と私は家族でありながら、その二人が作りあげたものはいまだ作りかけの家であり、不安定な家族であり、とそんなことが読み取れる。

 

説明をしてしまえばそれがなんなんだ、その図がなんなんだって言われてしまうかもしれない。ただ僕はその図柄にあぜんとしてしまう。それが詩に感動をするということなんだと思う。

 

この「指の爪に/のぼる白い月」というのは、大野さん自身が解説しているところによると、大野さんの指の爪にある半月形を母親が見ているということで、病の息子の体の状態を爪で判断して心配をしているということなわけ。

 

つまり月というのは空にある月ではなくて、爪の中の半月形のこと。でも、解説は解説であって、この詩を読んだだけでは月は月としてどうしても読んでしまう。

 

作者の意図とは違ったものとして詩の感動はでき上がってくる。あるいは、そういうところを予想してというか予めわかって大野さんは書いているのかもしれない。

 

建てかけの家や干潟が出てきて、でもだからなんだと言っているわけじゃない。母親が出てきているけど、別に親子愛が直接に語られているわけでもなく、母親の老いを思いやっているようにも読めない。家族は出てきているけど、建物の梁のように無機質に描かれている。

 

すべては単なる詩的風景で、その風景の選び方そのものが、詩の言わんとしていることで、大野さんが手を差し伸べるようにして書きたいことを現している。

大野さんの解説によると、でもこの詩は亡くなった母親に対する実にセンチメンタルな感情を歌っている。家の中にいるのに悲しくて仕方がない。まるで干潟に立ち尽くしているようだという詩であるらしい。

 

でも、ここも爪に登る月と同じで、この解説は詩を読む者が受け取るものとはちょっと違う。

 

現れた詩の方はそういった湿った感情を排除しているように読める。実際は排除してはいないんだけど、言葉があくまでも言葉として自立しているからその大もとの感情にもたれかかっていないように読める。

 

思いや出来事から受け取るものは、そのまま作品にするのではなく、それを抽象化する。

 

必要なところだけを、その骨組みだけを残して作品にしてゆく。そうすることによって、もともと抱いている情感とは別の、さらに洗練された、あるいは自分だけの体験としてだけではなく、人と共有できるものにまでせり上げることができる。

 

それが詩なのだ、という自信が詩行にまざまざと見えるし、読んでいるとまったくそうだと頷いてしまう。

 

いろんな詩人がいるけど比喩の使い方で詩は二つの種類に分けられる。

 

ひとつは、書こうとする内容を言葉の従来の意味そのもので直接に詩を作る人。そういう人は比喩をあまり使わないか、あるいは直喩を使う。

 

もう一方は書こうとする内容をいったんばらばらにしてその一部を言葉に結びつけて。それを詩に作りあげる人がいる。この「結びつける」という段階に暗喩が入ってくる

 

大野さんは明らかに後者

 

この創作過程が京都/滋賀詩壇に共有されていると言えるかも知れない。

 

(詩と死)

 

詩集『家』でも死ぬということが重要なテーマではあるんだけど、初期の詩集を見てみると、もっと顕著に死が語られている。

 

やたらに「死」という言葉がそのまま使われている。あっちにもこっちにも死という言葉が転がっている。

 

僕がことさらいうまでもなく、大野さんは若い頃に結核にかかって死と隣り合わせに生きていた。外地から帰ってきた経験も死への傾きに関係していたのだろうと思う。あるいは、その後息子さんを交通事故で突然なくし、晩年の詩も死ぬということから逃れることなく詩を書き続けている。

 

人生そのものがいつも死のとなりにあって、詩を書くときにいやおうなくその題材は死ぬということに関係をしてきたのだろうと思う。

 

で、そうは言ってみたものの、僕のこういう考え方は表面的で誰でもが考える道筋で、ホントに合っているのかなっていう気持ちが湧く。

 

ここで参考に「死について」という大野さんの文章を読んでみたいと思います。

 

これは詩集『藁の光り』の中の1篇。これも抜粋です。

 

 

「死について」    大野新 

 

 死について語ることほど至難にみえて、その実安逸な精神はない。この頃、私はそう思うようになった。私自身から死の直接的な匂いがうすれてきたせいだろうか。
     (中略)
 死んでいく人は、石ころのように遠ざかるだけだ。残された者は厖大な記憶が記憶として固定されてしまったことに気づき、あわてて生者の目として記憶を再編成するのである。 
 「死とはなんだろう」という問は、もう私にはない。 傲慢からではない。今の私は、もっと単純に生のなかにまぎれている。
    (後略)

 

 

この文章で僕が興味を引かれたのは初めの、「死について語ることほど至難にみえて、その実安逸な精神はない。」のところ。

 

つまり大野さんは自分は死と隣り合わせに生きていたから死のなんたるかが分っているんだ、とは言っていない。だから死の恐ろしさを詩に書いているんだとは言っていない。

 

「安逸な精神」と言っている。なるほどなと思う。

 

だって、死んだことのない人たちだけの世界に僕たちはいるわけで、つまり「死とはなにか」なんてだれにも分るはずがないし、ということは死の深刻さも死の重要さも、そんなのだれにもわかるわけがない。

 

言い換えるなら、死については、何を言っても正解もなければ不正解もない、

無責任な言葉じゃないかって感じるわけ。

 

だから、さっき僕が言った大野さんはその生い立ちや人生が死と近かったから死のことを書いたんだっていうのは、あまりにも安直な結びつけなんだろうと思う。

 

もっと根源的なもの、あるいは逆にもっと表面的なもの。病気でもなく、仮に安全な場所でのほほんと育って生きていたとしても、大野さんは死について書いたのだろうと思う。

 

つまりは条件抜きの死なのだろうと思う

 

(オヤジの言葉)

 

死ということで僕が思い出すのは僕の父親のこと。もう20年以上も前に亡くなっているんだけど、胃癌が他の臓器にも転移してでも頭は最期までしっかりしていた。

 

覚えているのは亡くなる直前にお見舞いに行ったときに、滅多に口を利かないオヤジがめずらしく僕に話をしたこと。

 

短い言葉だったけどね「イクオ、おれは死にたくねーよ」そのひと言だけを言った

 

そのひと言だけだけどね、オヤジの声が僕の中に消えずにずっとある。そうなんだなって僕は思った。

 

あまりにもわかりやすい言葉だったけど、そうなんだな、生きている人間が死について言える言葉はそれ以外にはないだろうと思った。

 

正直に言葉を言うことのすごさ、恐ろしさっていうのはそういうことなんだなって思った。

 

僕もたぶんオヤジと同じように大切な人に「実は死にたくないんだよ」と言った後で死んでいきたいそう思う。

 

僕も死についてたくさん詩に書いてきたけど、結局死ぬっていうことで僕が間違いなく分っているのはそれだけ。ほかはなにもわからない。

 

(京都/滋賀)

 

では気分を変えてもう1篇読んでみます。これも詩集『家』から。

 

「地霊」       大野新

 

家をこぼつと 
釘のついた松材や 
蛇口ごとほりだされた水道管が 
しゃにむに私のうでのなかに乱入してきて 
うけそこねては 
額に穴をあける 
雨期と乾期のさかいめで 
この家が建つまえの蛍の原 
ひかりをまとって死んだ老女の遺相が  
反ったり沈んだりする 
井戸のそこまで 
私は廃材をすてにゆき 
青白い反射をうけては戻ってくる 

虫くいだらけの乳歯の子と 
玄米主義者の父とが 
地霊のまわりをあるいている 

 

 

さっきの詩は家を建てる途中の詩で、こちらは家を壊すときの詩。ここに出てくる老女というのは母親のことかな。「ひかりをまとって死んだ老女」とある。鮮やかな一行だ。

 

でも内容や詩の雰囲気はさっきの詩「母」と同じようで、家族と、家という建物の持つ意味合いと、親の老いや死からは免れないという無常観。ざっくり言えばそんなことが書かれていると思うんだけど、僕がこの詩に感動するのはそういうテーマを要領よく言葉で表現しているからだけではない。

 

むしろ「水道管が/ しゃにむに私のうでのなかに乱入してきて 」のところの視覚的なイメージ。それがこの詩にひどく打たれるポイントなわけ。

 

詩の行がそれこそ僕の感性に乱入してきた。すごいな。すごい詩だなと、この詩を読んでいると思う。

 

さっき、正津さんのエッセイの中で京都詩壇のことを言っていたけど、この感動の仕方って、かなり清水哲男さんの詩に感動する時に似ている。

 

詩全体、というよりもその一部に完全にやられてしまう。

 

その一行が、それだけでもう詩を成り立たせてしまう。

 

もっと言うなら、たった一行が詩人の生涯の仕事を成り立たせてしまう。

 

それこそが詩そのものなんだということを、僕は当時の京都/滋賀詩壇から学んだ。その京都/滋賀詩壇の詩は、今の日本の詩の背骨になりえているんだと思う。

 

詩を書こうとするなら、それなりの長さの詩を書こうなんてくだらないことはしない。

 

ひたすら納得のいく一行を求めて行く。

 

すごい一行が書ければ、もうそれでいいと思う。

 

生まれてきた甲斐があったと思う。

 

その一行を広げたり伸ばしたりして、それなりの長さの詩にするなんてくだらない。

 

心に乱入する一行があっての詩なのだと思う。 その一行を際立たせる一篇で、詩はありたい。そう思う。

 

(北原白秋と大野新)

 

話が長くなってしまったのでもうそろそろ終わりにしたいと思います。今日の話の最初に出てきた北原白秋はまぎれもなく詩人。

 

でも、大野新もこれも間違いなく詩人。

 

詩壇の明るい大通りを大手を振って生きていた詩人と、地方のひとつの雑誌で地味に活動していた詩人と、一見違う生き方をしているように見えるけど、僕にとっては二人とも同じに見える。

 

詩に取り憑かれて、生涯詩に寄り添って生き抜いた。どこまで有名だとかはむろん問題ではない。詩人の人気投票に興味はない。

 

詩人が信じられるのは詩そのもの。詩人の思いを間違いなく受け止めてくれるのは自分が書き上げた詩だけなんだと思う。

 

最後に、大野新さんのひと言を引いて終わりたいと思います。青木はるみさんも、大野さんについての文章の中で最後に引いていました。

 

「詩人は本来、表現者です。ナンセンスでない詩を書いていきたい」

 

僕もそうありたいと思います。

bottom of page