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2017年8月の話
 
三橋聡のこと
​松下育男

 

 前回は、「ロシナンテ」の話をしました。「ロシナンテ」の話で石原吉郎と勝野睦人と、それから好川誠一。その時に話をしたのが詩とその奥、詩って誰かが書いたものですね。それって詩から読み取るもよし、読み取らないのもよし。でも「ロシナンテ」っていう戦後すぐに「文章クラブ」の投稿欄の仲間が集って始めた雑誌があり、その中の人間模様みたいなものを話した。詩って、基本的に一人で書くものなんだけど、社会的に、こうどこかで人と巡り合ったりする。その中の、同人誌の一側面の話をしただけで、ここにいる人たちベテランがたくさんいるからわかっているよと思われるかもしれないけれども、やっぱり僕はあの時に、特に好川誠一の話をした時に、やっぱり文学、人との関係で、傷ついて、自分を追い込んで病になってっていう話を強調しちゃったから、そのあと養老の滝に行って飲んでる時に、若い参加者から、「僕は同人誌には決して入りたくない」という話を聞いて、ちょっとまずかったかなという気がして、反省してます。同人誌ってそうでもないよね。もっとお気楽なのもいっぱいあるし。ただ、その時に話をしたね、僕は嘘を言ったつもりはないの。ただ、やっぱり自分が書いて、その詩を認められたいとか、褒められたいとか、有名な雑誌に載りたいとか、詩集を出したいとか、賞を獲りたいとか、死んでからも名前が残りたいとか、どうでもいいんだけど、そう思うのは普通だと思う。そう思うほうが、当たり前だと思う。そういうのって、やっぱり原動力になるんだと思うわけね。僕は勤め人43年やってきたけれども、出世したいと思っている人のほうが仕事ができるのね。嫌なやつでも仕事ができるやつのほうが出世する。自分の詩を愛しているんだったら、その詩を認めてもらいたいって当たり前だと思うの。ただ、その認められたいっていう欲望を、自分で制御しなきゃいけない。その欲望に自分が取り込まれちゃったらいけない。好川さんが、取り込まれてしまったとは言わない。僕、だって知らないもの、そんなに細かいこと。ただ、ひとつのパターンとしてこういう事実があったから、そこからこういうことが言えるよって言っただけであって、あの時に石原吉郎、好川誠一がどうだったかなんて、そこまで言う権利は何もないし。ただ、図式のひとつとしてね、言っただけなんだ。

 それで今日話すのは、「グッドバイ」っていう雑誌。前回は僕が関わらない、僕より一世代前の雑誌だったんだけど、今日話すのは僕がまさに入っていた雑誌です。前々回だったかな、詩を読むっていうのは二つの形があるよねっていう話を会の始まりで話したと思うんだけど、詩を読むっていう時は、有名な詩人、例えば現代詩文庫だったり、戦前の詩人、いろんな詩人、教科書で読みました、そういう遠い存在から学ぶっていうのがひとつの詩を読むっていうことだけど、でもそれだけじゃないでしょ。詩を読むっていうのは、もう一つの面があって、近くにいる人、すぐそばに、同じ時代で、同じ息をしていて、同じ社会現象、同じ新聞を見て、同じ時代の空気を吸っている人たちが、自分が書いているそばで、その隣の席で書いている詩っていうのも、もう1つの詩なんだよね。それって、例えば萩原朔太郎とか伊東静雄とかみたいにはずっと残らないかもしれないんだけれども。じゃあ、僕自身が詩を書いていてどこまで自分の中に残ってきたかっていうと、そういう遠い存在の詩、テレビの向こうの詩、教科書の向こうの詩だけじゃなくって、高校生の時に、同じクラスに加藤くんっていう人がいた、学生運動にも参加していた生徒なんだけど、同級生の加藤くんが、自分の詩をまとめて、教室のみんなに見せていた。それを読んでいて、僕も当時詩を書いていたけど、でも誰にも言えなかった。恥ずかしくて。加藤くんは自分が書いたものをまとめて、自分を外に出すっていうことのできる人だった。だから彼の中で学生運動も、詩も、やるべきだと思ったからやっていたんで、詩は人に読んでもらわなければいけないと思っていたから、みんなに見せていた。同じ高校で同じクラスだった僕も詩を書いていたんだけど、とても恥ずかしくて、僕の詩なんて幼稚でだめなんだって思っていたから、そういう行為はできなかったし、自信があったとしてもやはりできなかったんじゃないかと思うね。でも加藤くんの詩を読んだ時に、「あ、すごいな」って思ったんだよね。そういう「すごいな」っていう気持ちっていうのは生涯忘れないんだよね。そういう、友人が書いた詩っていうのは、なんていうかな、中原中也が書いた詩とはまた別の魅力があるんだよね。それって、すごく近くにいるから分かる詩っていうかな。ただその2種類の詩、自分の近くにいる人の詩っていうのには、そうそう巡り合うもんじゃない。やっぱり憶えているんだよね。そういう詩ってね。憶えているだけじゃなくって影響を受ける。僕は加藤くんの影響を受けてる。同級生の影響をすごく受けてる。だから、詩を読む、詩を書く、詩を生きるっていうのは常に2つの面がある。歴史としての詩、それから今の詩。それでその今の詩っていうのはその、そうそう同級生にいい詩を書いているなんてことはあるわけがない。では近い詩ってほかに何があるのっていったら、やっぱり同人誌じゃないか。投稿欄もそうだけど、やっぱり同人誌だ。

 「グッドバイ」が創刊されたのは1975年。戦後、もうだいぶ経っている。30年経っている。詩の世界も、「荒地」「列島」を経て「凶区」があり、「ドラムカン」があり、いったん行き着くところまで行ったあとで、ちょっと叙情の戦前回帰もあるんじゃないかっていうか、戦前の詩も含めて戦後の詩も、両方のいいところをまとめてみようよっていうような雰囲気があった。僕の勝手な解釈ね。だから、戦前の詩、戦後の詩、別々じゃないんだよ。現代詩ってそういう区別なしにもっと鋭いもの、輝いているものがあるんじゃないか。そういうのが出てきた時代。具体的に言うと、みんなよく知っているけど荒川洋治とか、平出隆とか稲川方人。自分が詩を書くことによって創作だけじゃなくって、編集もやる、発行元にもなる。詩や感性全体を自分が占領してゆく、そういう気概をもって、自信をもって出てきた人たちが何人かいた。そういう中で出てきたのが「グッドバイ」という同人誌です。ではその頃にどういう雑誌があったかっていうと、色々あったんだけど、僕の近く、「グッドバイ」の近くには、「夜行列車」っていう雑誌があった。全く同じ世代。瀬尾育生とか、清水鱗造とか若井信栄とか。たぶん、「現代詩手帖」の投稿欄で集まった人たち。それから「射撃祭」っていう雑誌があった。「射撃祭」はホントに近くにあった。高木秋尾が主宰していて、この中に三橋聡が入っていた。ちなみに岩佐なをも入っていた。なんで「射撃祭」に三橋が入っていたかというと、やっぱり「現代詩手帖」が鍵になる。三橋って、最初は「詩人会議」から出てきた。「詩人会議」で投稿をしていた、十代の頃ね。僕は1950年生まれだけど多分彼は1953年生まれなんじゃないかな。3つ年下。「詩人会議」から出てきたんだけど、十代で『断片的なフォルム』っていう詩集をもう出していた。なにしろ詩が好きだった。なにしろいっぱい書いていた。それで「詩人会議」に入っていた頃には、あとで聞いたんだけど、週刊で個人誌を出していた。それをみんなに売っていた。その中身の質は知らないんだけど、週刊で出すっていうエネルギーね、そのエネルギーが質を高めていったんじゃないか。それで、「詩人会議」に投稿していた詩ってね、やっぱりちょっと違うんだな、ほかの投稿詩とは。「詩人会議」の投稿詩とは。それって、別に雑誌がこういう詩を投稿しろって決めたわけじゃないんだけど、おのずとあるんだよね、その雑誌が顔を向けている方向っていうのが。三橋の詩ってやっぱりその当時からちょっと違っていて、もっとレトリックに走っているし、もっと言葉の艶の方を目指していた。そういうところがあるから、ほかの「詩人会議」の詩とは違っていた。それが自分でもたぶん感じられてきて、「自分の詩は詩人会議じゃないな」っていうんで「現代詩手帖」に投稿始めた。たぶん同じ1975年か、その前の年。だから、「詩人会議」から「現代詩手帖」に移った。

 

 

幼年論    三橋聡

 

ほらね 喉がキリンのようにながくなったら
きっとどんな言葉だってみちくさばかりくって
童話に夢中になってしまうだろうよ

木が吐きだす唄 その緑の声帯のなかで
積木からおりたばかりの姪の三歳の耳

孤独な水音やつまらない落下音
けれども君はぼくの話よりも音に敏感だから
つめたくひかる吐息のなかで
ふいにいなくなってしまうのが常である

そこがどんな場所なのか もちろんぼくは知るすべがない
よくみると 君はめのまえにいるのだけれど、、、

 

 

 「グッドバイ」っていうのは、三橋聡と上手宰の二人が中心になって作った雑誌。1975年。それまで三橋は「射撃祭」とは別にもっと前から「層」っていう雑誌にも入っていた。これは「詩人会議」の人たちが中心。上手宰ってその当時、まさに「詩人会議」の編集をやっていた。三橋も「詩人会議」に投稿していて目立った存在だった。この二人が、一緒にやろうじゃないかっていうんで出来たのが「グッドバイ」。だから、なんかこう、混じっている。「詩人会議」と「現代詩手帖」が混じっている雑誌。その時に、二人だけでやるのも何だから、三橋が島田誠一という魚関係の仕事をしている人と、目黒朝子という数学の先生、この人はホント、幾何学模様のような詩を書いた、その二人を呼んだ。それから上手が、僕に声をかけた。その5人で始めた。だから僕はどちらかと言うと上手派。上手派と三橋派がよく議論や喧嘩をしていた。大久保だか新大久保だかの飲み屋へ行って酔うほどに、喧嘩が始まる。僕はどっちの味方かっていうと、曖昧にしていた。でもね、なんていうかな、雑誌って異種が混じった方が面白いと思う。やっぱり「現代詩手帖」に投稿している人って、ある種、似たような所があるじゃない。そこに「詩人会議」の要素が入るとね、結構面白かったね。で、同人誌って何がいいかっていうとね、この教室にもおなじようなことが言えるんだけど、次の号のために詩を持ち寄ろうよと言って、この時だったら5人が持ち寄るでしょ。僕も若かったよ。20代半ば。三橋は20代前半。持ち寄って、今みたいにe-mail があるわけじゃないから、原稿用紙にカチッとした字で書いてきて、みんなで回して読む、その時に感じた新鮮さっていうかな。似たようなことを、この教室でも感じるんだけど、初めて読むわけじゃない、三橋が「こんなの書いたよ」っていうの差し出して、「え、紙飛行機」読んでみて、すごくいいんだよね。涙がでるくらいにいいの。それって、詩を読むって2種類あるよねって、有名な人の歴史的な詩を学ぶっていうのもあるし、もう一つは今、隣で書いている人の詩のキラキラ感みたいなもの。やっぱり忘れちゃいけないし。ただね、これ僕面白いなと思うのは、今、同時代の近くにいる人の詩って一番良く読める、1番理解できる。でも、それだけじゃないんだなって最近思ってるのは、本当に近くにいる人の詩って、谷川俊太郎の詩よりもぐっと来ているのに、谷川俊太郎よりも有名になれないの?そういう疑問が出るわけで、それはなんでかっていうと、近くにいるからこそ読めない部分がある。要はね、近くにいるから感動するんだけど、あまりにも近くにいて、同世代で、同じところで書いているから、ちょうど自分の詩が自分で読み取れないのと同じことなんだ。自分の近くにいる人の詩も、自分自身の周辺になってしまってる。大きな自分なんだ。同人誌っていうのは。だから、すごく感動するんだけど、それって、自分の詩を読んで気持ちよくなっていることと似ているところがあるのかなって思う。だから、事前に三橋の詩みんなに送ったんだけど、僕なんかうっとりして読むんだけど、たぶん送られた人はそうでもないという人がいるんだろうな。それはしょうがないんだろうな。僕は自分の詩を読むようにして読んでいるけども、みんなにとってはそうではないから。

 

 

紙飛行機    三橋聡

 

中庭の木椅子のところで午後になる
夏休みのように誰もいないぼくの耳には水だけが光っている

櫂を軋ませながら舟がながれてくる
白い歯と痩せほそった体をきりつさせひとりの兵士が瞼を閉じる

君の瞼には果実を割ったような国境と
水のようにどんどん蒸発しちまった男たちのつまさきがやきついている
サイゴンの木立ちの中をあるきながら解放軍兵士が陽の文字のように手紙を書いていた
その訪れた祝歌でさえ今ぼくの頭蓋を砕くのに充分すぎる

ぼくは、 ぼくの思想を折りたたみ紙飛行機をとばす
そのとめどない光りの中でぼくの瞳孔はいつまで拡散をつづける?

中空に一瞬とまったままの紙飛行機
坂道をくだるようにおうそのままぼくの視界へとひろがる!

気がつくと 黄昏をぬって歩く足のあたりからぼくたちの街が無表情な光沢をたたえているのがみえる
君たちの日付にしみた血の総量をすっきり脱糞しながら

(「現代詩手帖」1975年10月号)

 

 

 ホントはここで三橋の詩を配って読んだほうがいいんだけど、時間もないから事前に送りました。僕が感じた三橋の詩、5点だけざっと言っておきます。もっといっぱいあるんだけれども、(1)一点目はやっぱり時代の影響だよね。詩人って、時代の影響をもろにかぶる人と時代に鈍感な人といる。どっちがいいとか悪いとかではなくて、三橋ってつねに状況を気にしていたし、社会を気にしていたし、でも社会の出来事を気にしていたと言っても、ベトナム戦争に反対のデモに行くかというとそうではなくて、ベトナム戦争でさえ、きれいにレトリックとして使いたい。それは彼の個性。あるいは、詩の状況に関しても、まさに当時の詩の状況をきちんと踏まえて自分は詩を書かなきゃいけないと思っている。そういうタイプの人だった。書き方、社会、時代の波に乗っていたのかなと思って。ぼくより3つ年下だったんだけど、会った当初から僕のこと呼び捨てだよね。「グッドバイ」5人いたけど一番年下、それなのにみんなのことを呼び捨てにしていた。なんでかっていうと、三橋は自分がみんなのことを引っ張っていると思っていたから。こっちも、生意気だなとは思うけど腹はたたない。それでいいんだなって納得させられる。だからみんな呼び捨てなんだ。堂々とした生意気さだったと思う。見た目のスッキリとした男だった。1番目がその時代の影響。(2)2番目は直喩だよね。まさにこの詩を読んでいると直喩の多用。直喩の多用っていうよりも、僕の感じ方は「のような」っていう言葉が好きなんだ。直喩そのものが好きなんじゃなくって、「のような」っていう言葉が好きなんだ。でも「のような」単独では使えないから前後で見事な直喩を作ってしまう。読んでもらえるとわかると思う。すさまじい直喩の多用だよね。ほとんど骨格みたいになっている。それってたぶん彼の中ではその当時って、今日何度も出てきているけども、清水昶流の暗喩、隠喩、暗い側面をほのめかしてゆくっていうそういう凄さみたいなものに覆われている中で、もっとスカッとした直喩を使いたいっていうそういうこともあったのかなって感じがあるのね。だからもうまさに直喩の多用が三橋の2番めの特徴。(3)3番めは、今日も何回も出てきたけど、「話し言葉の活用」ね。これはもうとってもうまかった。さっきの「幼年論」にも出てくるけれども、話し言葉がなんで使われるかっていうと、やっぱり感情の優しさっていうものがダイレクトに伝わってくるから。まさに感情の優しさにほだされてしまう。「話し言葉の活用」っていうのも、彼自身分かっていたのね。(4)4番目は形容詞、形容動詞の新しい魅力。これは例は出さないけれどもよく読んでもらいたい。これは三橋だけが始めたんじゃなくって、当時の、清水哲男であったり郷原宏であったり、まさに荒川洋治であったり、新しい形容詞の使い方が日本語の中でだんだん出来上がってきた。三橋もそれに乗っかっているような感じ。もう一つ言うならば、三橋って当時すごく悩んでいたことがあった。というのは、詩が清水哲男に似てるねって言われることがある。それですごく傷ついていた。でも、だれしもだれかに似ているんだよね。ただ当時も清水哲男ってすごく目立っていたし、新しいし、『喝采』であったり『水の上衣』であったり、『水瓶座の水』『スピーチ・バルーン』であったり、あの刮目すべき詩集を出していた。似ているっていうと抵抗があるんだけど、影響を受けていたということはできる。でも、それって仕方がないのかなって、まさに三橋の詩は三橋が書いたんだから。それを言っていたらきりがないような気がする。でも、本人はすごく気にしていた。なにしろ清水さんは敬愛する詩人だったから。で、これが4番目。形容詞、形容動詞。(5)それから5番目は「水」に関する言葉へのこだわりだよね。「水」っていうのは、彼にとっては、もう一つの世界。今、ここで呼吸しているところからもう一つの世界である、詩へ行こうとする橋、橋のむこう側なんだ。「首都水名」、「首都に水名を」って現代詩手帖に採られていたし、あれって首都に水の名前を付けたらどんな名前になるだろうって。水っていうものが、自分があくせく働いている所から詩の世界へ渡るキーワードだったのかなっていう。この5点です。まだまだいっぱいあると思うんだけれども時間も時間だし。

 

 

首都の水名を    三橋聡


なぜ僕は水しぶきをあげてまでもあの柵のむこうに行こうとしたのだろうか

その日も父は土を信じてすばらしい恐怖のように汗をおとした クレヨンが夕焼けに溶けて僕の瞼に影絵をつくっていた 上衣はいつものように椅子にかかっていたが、その時すでに父はいなかったのかも知れない

ひとつの地名だけをその余白にかきこんで夏はもう瞼を閉じてしまったよ

収穫にゆれる午後 舟足につらい秋唄をききながら 僕は坂道をその角度の異和のなかでおりている 不思議に人に出会っていない そのまま歩くことが唯一の姿勢だったのである

ある時期をすぎると物はその形を失いはじめる 足音だって美しく散ってゆく

わずかに残された言葉で僕は水を飲んだ からだをひくと 水面に老いた柵がフォーカスのようにうかびはじめる 僕は手をふった

それが物語の入口であったか いやどのようにとびこむにしても途があると思うな!

ただ世界をうらがえしたにすぎない土から離れて 今 ゆらゆらと海藻のように佇ちつくし空をいくあめあしをみつめている青年よ

淀む視界をうってこの首都につけられるべき 水名を記憶せよ


(「現代詩手帖」1975年11月号)

 

 

 

 それで「グッドバイ」っていうのは、1975年に始まったけど、いつ終わったのか知らないんだよね。僕はやめちゃったから。「生き事」もやめちゃったけど、「グッドバイ」も途中でやめちゃった。なにしろやめちゃう人だから。7号くらいまではいたんだよ。そこから先知らないんだ。たぶん80年代にも出ていたと思う。優秀な同人も何人か入って。でも、三橋は最後までいた。三橋はやっぱり自分の雑誌だと思っていたから。自分の雑誌っていうのは、自分の詩を載せるっていうだけのことではないんだよね。彼、美術のほうもやっていたから、装丁から、今みたいにPCがあるから枠組みから簡単にできたわけではないんだよね。原稿用紙で書いたものを文字数を数えてデザインしてゆく。そういうのを全部やって、宣伝文を書いて、そういうのすべてが好きだった。やっぱり、詩に対する愛着がまさに「グッドバイ」っていう雑誌に対する愛着だった。すごく美しいと思う。僕に持っていない美しさを持っていた。それで最後までやり遂げて終わったんだ。詩集は、『アルルカンの挨拶』と『日没までの質問』、それから先程言ったようにもっと前に一冊詩集を出していました。

 それで、詩をきっぱりやめました。本当にきっぱりやめた。当時、僕も詩をやめていた。だから、音信不通になっていた。それで、三橋は奥さんと茨城のほうに行った。奥さんの実家の近くに引っ越して住宅会社に入った。「グッドバイ」を始めた頃に大学を出て、住宅会社に入る時はもう新卒じゃなくってそこそこの年になっていたんだけど、三橋から後に聞いたんだけど、その住宅会社の面接を受けましたと。まさに一般企業だね。一般企業に面接に行った時に、「松下、おれはいままで作った『グッドバイ』を全部持っていった」と言っていた。面接に行った時に、面接官に、「僕は今までにこういうのを作りました」と見せた。住宅を作って売る会社なんだ。現代詩関係ない。でも、彼は詩を書いていただけじゃないんだ。雑誌そのものを作っていたんだ。詩と、その周辺と、アイデアと、その全てを、それを、自分のいままでを見せたかった。だから、詩っていうものの捉え方が僕よりも大きかったんじゃないか。そのおかげで受かったのかどうかはわからないんだけれども、その有名な住宅会社に彼は見事に受かりました。で受かったあと、僕は音信不通になってしまって、彼は茨城だったし、僕は東京にいたから、全然連絡がなかった。で、僕も詩をやめたり、ちょっとまた戻ったりして。

 

風のおわりに     三橋聡

 

それから
小さな風になるまえの風と
片手に持っているクッキングブック
日没の空にひろがってゆくしみのようなもの
ばかりみていた
忘れていた
木を描いて
ふいに全部、違ってきたから
「今日はここにいるんだ」
だけど、いつのまにかきみはいなくなって
長いストローだけが残る
ときには
こんなふうにいきさつをとばしてみると
私語のように
あらゆる関係が
でたらめに屈折しては
脹む
「大きな風船が欲しいよ」
流れるだけ流れて
割れるから
ちょうど半分だけ
失踪する
少年のように
半分だけ
「何も見えないさ」
帽子がとばされる
その瞬間にもーー

 

 

 でも、ある所でばったり会った。2003年、僕は詩集を出した。だから1980年代に三橋は詩をやめているから、20年位経っていた。これは僕自身のことだからどうでもいいんだけど、2003年に『きみがわらっている』という詩集を出している。この詩集、なんで出したのか僕はわかんないんだ。でも、あえて理由を探すなら、当時、ずっと詩を書いていなかったから、もう何年も書いていなかったから、でも最後に一冊出してやめようと。若い頃に一生懸命に書いていた、それで最後に一冊だけ書いてやめようと『きみがわらっている』というのを出した。出版元はミッドナイト・プレス。出版元の岡田幸文さんが、「松下さん、出版記念会をやりましょう」と言ってくれた。出版記念会って、この部屋の何倍もあるところでと思うかもしれないけど、その時は、居酒屋の個室だったの。吉祥寺だったかな。なんでかって、出席者が少ないから。出版元と清水哲男さんと八木幹夫さんと、僕だけだったの。でも、案内だけは何人かに出していたの。「詩集だしたよ」って。「久しぶりにだしたよ」って。でも欠席ばかりの返事が戻ってきて、一番来ないだろうと思っていた三橋が茨城から来たんだ。来てくれたんだ。2003年。もう、変な言い方だけど、偉くなってた。住宅会社で、そんな才覚があったのかと思うけど、かなり偉くなってた。その人が、茨城から、吉祥寺だったと思うんだけど、飲み屋にぬっと顔を出した。「松下!」って、いつもの呼び捨てで。すごく喜んでくれていた。「お前、詩集出したのか」って。「で、三橋どうした」って聞くと、「詩なんかぜんぜんやってない」っていう感じ。ただ、重要なのは、そこに清水哲男さんがいたってこと。哲男さんがいたんで、驚いて、三橋、すごく喜んだ。自分の生涯で、自分があこがれて、敬愛して、この人みたいな詩を書きたい、この人みたいな叙情に生涯を捧げたいと思っていた。自分が詩を書いていたその源のような人が、出版記念会の、たかだか5人か6人の出席者の中の一人だった。すごく喜んで、感激して、いっぱい酒のんで、もう僕の詩はどうでもいいんだよ。だれも僕の詩についてなんか話していない。ただ、「清水さん、清水さん、」っていう感じ。ぼくはこっち側から「ああいいな」って見ていた。幸せな気持ちで見ていた。その時に、嫌な言葉なんだけど、三橋って偉い人だった。所得が多いんだ。それで、「みんな、今年の冬に、あんこう鍋をごちそうしたいから茨城に来ませんか。招待するから」って言い出した。みんなっていうけど、呼びたかったのはただ一人。それでその夜は終わった。いっぱいお酒飲んで、いっぱい話をして、三橋もいい思い出になったなという感じで、吉祥寺駅までトボトボと歩いて、清水さん、ああいう優しい人だから、いつも寡黙に、人の気持を傷つけずに、人の喜びを増すような態度で、いつも接してくれていた。ああいう人だから。みんな幸せな気持ちで帰った。それで、その時にもう清水さんも冬に茨城に行く気になっていて、手帳を出して、じゃあ何月何日にしようかって日にちまで決めた。その冬に、みんなであんこう鍋に行こうよと。

 正確なとこは覚えていないんだけど、そのあんこう鍋へ行く約束の日の一ヶ月ほど前かな、ハガキが来た。三橋から。「松下、あんこう鍋、ちょっと延期してくれないか。体調を壊したんだ」それを清水さんに伝えてくれないかっていうのが来て、「清水さん、三橋の具合が悪くなってしまったので、あんこう鍋を延期してもらえないかと言っています」とメールをして、そうしたら清水さんから、「松下くん、あんこう鍋は逃げていきはしないでしょう」っていう返事が来て、三橋に伝えた。じゃあ、よくなったら行こうよっていうことになった。

 それが、その年の暮に、夜、奥さんから電話があって、「三橋が亡くなりました」と。50歳だったかな。どうしてそうなってしまったのかわからない。50歳で亡くなった。翌日、島田誠一と一緒に茨城に行って遺体に会いました。それから告別式にも行きました。僕もこの年だから告別式にはたくさん出ているけれども、あんなに盛大なっていうのもへんだけど、あんな告別式みたことない。ほぼ会社関係の人たち。すさまじく大きい告別式。だからなんだっていうわけでもないんだけど。その時に僕が思ったのは、『きみがわらっている』っていう詩集は、どうしてだしたのはわからないっていうのは言いすぎだし、言おうと思えばいくらでも理由はつくんだけど、確たる理由はないんだよね。そこから先、僕、詩を書き続けていこうなんて気持ち、サラサラなかったし、今もないし。詩になにかをしてもらおうなんて気持ち、まったくないし、でも詩集を出しておきたいっていう気持ちだけはあった。たしかにそれまで僕、詩集は何冊か出しているんだけど、自分に子供が生まれてから出したことはないっていうことは言えるんだ。でも、それも後付の理由。でも、三橋が亡くなって、ふと思ったのは、やっぱりあの夜に、三橋と清水哲男を引き合わすために、僕はあの詩集を出したのかなって、合点がいった、っていう話。詩を書くって、詩を書いたときの喜びだけじゃなくって、詩の奥に、こないだの「ロシナンテ」の話じゃないけど、詩には詩を書いている人の血液が流れている。その血液が、時々自分のところを巡り巡って、いいこともあるぜ、っていうのが今日のお話。以上です。

 

(2017年8月13日 「初心者のための詩の書き方教室」での話。於:横浜石川町エルプラザ会議室)

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