top of page
2018年4月の話
 
​書きたいことを書くってどういうこと?
​松下育男

 

 今日は「書きたいことを書くってどういうこと?」っていう話をします。つまりは、書きたいことをホントに書いているかなっていうこと。だからそんなに複雑な話ではありません。

(1) 向いていること、向いていないこと

 

 いつもここで話をするときには、会社のことを最初に話すんだけど、今日も同じ。さっき紹介したスパイラルのビルから10分ほどのところにある会社に僕は37年間通っていた。でね、会社に入ってしばらく、よく考えていたのが、「自分は会社勤めに向いている人間かどうか」っていうこと。

 学生の頃は、早稲田の古本屋でよく詩集を読んで時間をつぶしていた。友達もいなかったし、人と話をするなんてことは滅多になかった。人付き合いがうまく出来ないから、会社人間になれるかどうかという恐れが確かにあった。

 でも勤め始めてみると、経理部だから基本デスクワークで、数字を見ていれば一日は終わる。だから結構やっていけるのかなと安心したわけ。

 仕事中はね、だから問題がないわけ。問題はむしろ仕事ではない時。会社で、仕事は向いているんだけど、仕事以外が向いていないと思った。

 例えば昼休み。男は男、女は女で、昼飯後に集まって話をする。そんな時に、ああ自分は会社に向いていないんだなと感じる。

 なぜかって言うと、そこでの話題についていけない。というか全く興味が持てない。車の話だったり、ゴルフ、競馬、スキー、麻雀、あるいは渋谷のどこそこにロシアンパブが出来たとか。正直、どの話題にもまったく興味がないわけ。

 付き合いで競馬にも行ったことがある。会社の人に誘われて。でも、馬券が当たっても当たらなくてもなんにも感じない。確かに馬の寂しげな表情を見ていれば、多少気持ちが優しくなることはあるけど、それはそれだけのこと。競馬とは関係がない。

 車にしても、そりゃあ便利だとは思うけど、車種だとか馬力だとか、どうでもいい。会社の人なんてすごくそういうことに詳しくて、車の名前はもちろん、自分の車に固有名詞をつけてちゃん付けで呼んでいる人さえいる。そういう気持ち、まったくわからない。

 昼休みだけじゃなくって、外資だから帰りに飲み屋に行くっていう感じじゃないんだけど、でもたまには飲み屋のテーブルに4人で座る。初めのうちはね、僕に気をつかってかどうか、会社のことやなんかの話題を話しているんだけど、酔うほどに、それこそ競馬や麻雀やゴルフの話になってしまう。そうすると、僕はもうやることもなく、相づちをうつタイミングもわからず、ずっと遠くの壁に貼られている汚いメニューを、見るともなく見ている。

 

(2) ゴルフの不自然

 

 ゴルフにもね、行ったことはある。ゴルフ場じゃなくて打ちっぱなし。表参道に会社があったから、明治神宮の打ちっぱなし。若い頃で、男女8人くらいで会社の帰りに行った。誘われて、いつも断るのもなんだから、行ったわけ。

 でね、ゴルフって、言うまでもなく、下に置いたボールをゴルフクラブで打つわけ。その時に感じたのが、それがすごく不自然な動きだなっていうこと。野球でバットを振るよりもずっと不自然。たぶん、右手と左手の位置とボールとの距離や角度の問題だと思うんだけど、つまりやりたいように振っても思った方へボールは飛ばないし、当たらないこともある。

 好き勝手に振ってもうまくいかないから、うまい人に教えてもらった。足の開き方から、立ち方、クラブの握り方、振り方。教えてもらいながらもおんなじことを感じていた。すべてが不自然な動作だなって。つまり、ゴルフがうまくなるというのは「不自然を体になじませる」ということなんだなって。

 でね、「不自然に自分を律していなければ物事は成就しない」それってゴルフだけじゃないなって考えたわけ。詩も同じことが言えるかもと。

 

(3) 詩を学ぶ

 

 詩を書いていて時々思うのは、書きたいように書いていると、つまらない所へ落ち込んで行ってしまうことがよくあるということ。なぜだろうと思うんだけど、詩を書いていくその先には、あっちこっちに「詩がダメになる落とし穴」が空いている。その落とし穴に落ちないようにしっかり歩いていないとちゃんとした詩が書けない。

 そう思うから、他の人のうまい詩を参考にしたりして学ぶ。そうして学ぶことにはだからしっかりした意味がある。

 

ー 擬人法は恥ずかしがらずに
ー 同じ単語を繰り返さない
ー 夢のことを書いても人にはつまらない
ー 行と行の関係性は付かず離れず
ー 最後はきれいに着地しない
ー リフレインはどうするこうする
ー 暗喩は暗いほうが良さげに見える
ー こうしたら詩は見栄えが良くなる

 

 そういう縛りを身につけて詩を書く。ゴルフスイングと同じ。不自然をしっかり身につける。

 それ自体はね、否定しない。自己流って、幼いところからなかなか抜けきれないし、基本、つまらない。でもね、そうして勉強して、不自然が身についてくると、何かがずれているなって感じてくる。少しずつずれてきているなって。

 どこからずれてきているかっていうと、最初の所から。最初の、詩を書きたい、表現したい。自分がここにあることをそっと置いておきたい。そういう思いからだんだんずれてくる。自分から、自分の書きたいという欲求から。立ち止まって、振り返って、「これってホントにやりたいこと?」っていう疑問が出てくる。

 たぶん、やりたいことって二重構造になっていて、ずれていい所と、ずれてはいけない所に分かれている。

 

(4)詩をやめて

 

 この話もここで何回かしたけど、僕は20代まで詩を学んで、30代の途中で詩をやめた。もう詩はいいかなって思った。心は離れていたし、たぶんそれまでに学んで来たものも少しずつ失われていった。だから、詩を書くっていうことからは遠かったし、「よい詩」を書くなんてことはどうでも良かった。無理してよい詩を書きたいと思わなくてよくなっていた。もう一生書くことはないだろうと思っていた。

 それがね、50代のある朝、目が覚めたら詩ができてしまった。なんでだろう。子育ても一段落して、会社も重要な所から外れて、生活が少し穏やかになったからかも知れない。でも、ほんとうの理由なんてわからない。ただ詩が出来てしまった。その時に思ったのは、詩は書くものではなくて書けてしまうものなんだなって事。本当にその人に親しいものは、こちらが捨ててもそっちからやってくる。

 その書けてしまった詩はね、「いい詩を書こうとしていない詩」なわけ。詩以前の詩。あるいは、詩以後の詩と言ってもいいかもしれない。ホントに書きたいことだからどんどん書ける。

 人生の大半、いろんなことがあって、不自然な動作ばかりで乗り切ってきた、通してきた。そのためかどうか、僕のどこかに、詩くらい書きたいことを書きたいように書いておきたいという気持ちがあったのかも知れない。

 

(5) 詩のしがらみ

 

 話はちょっと戻るけど、長く詩を書いていると、しがらみや慣れって出てくる。外に対するしがらみだったり、自分とのしがらみだったり。

 自分とのしがらみって何かって言うと、


ー すぐれた詩とはこういうものだという確信
ー 自分の実力ではここまでは書けるという決めつけ

 

 そういうしがらみって、確かに大切な学びから来たものではある。

 でもね、一度くらい、あるいはたまには、そういうしがらみから離れて書いてみてもいいんじゃないのと思う。

 

ー それまで書いてきたものに縛られない
ー 人から、あるいは批評家からの言葉なんか気にしない
ー 同じ単語を好きなだけ使う
ー ひらがな表記が好きなら、ひらがなばかりの詩にする
ー 本当は何を書きたかったのかを思い出す
ー 技術を忘れる
ー 誰かに似ていると感じても気にしない
ー 書くことにただ夢中になる、それだけ
ー 出来上がりを気にしない

 

 そうすると見えてくるものがある。胸郭が広がる。もともとの自分に出会える。

 

(6) 最後の詩集

 

 さっきの話に戻るけど、50代なかば、ある日に詩が書けてしまった。あれよあれよという間に、出来なんかどうでもいいやという詩が50篇以上書けてしまった。

 でね、せっかく詩が出来たのだから、これを本にしようと思った。最後の詩集になるだろうけど、自分の書きたいように書いた詩を残したかった。

「きみがわらっている」という題をつけて、本にした。

 あの詩集は、だからゴルフクラブを大きく振り回した詩集。ボールが遠くに飛んだかどうかは、わからない。

bottom of page