

2019年8月の話(池袋「こじんまりとした詩の教室」)
茨木のり子さんの詩を読んで僕が感じたこと三つ
松下育男
今日の話をする前に
ひとつ感じたことを話します
この池袋教室で
みんなの詩が集まって
僕はひとつひとつ読みながら
感想を書いているんだけど
今月のみんなの詩を読みながら
僕は感激をしていた
というのも
この会はこれで五回目なんだけど
ほとんどの人が
前よりもよい詩を書くようになっている
そう感じるのは
もしかしたら
読み手であるぼくの体調のせいなのかな
あるいは気のせいなのかな
と
疑ってもみたんだけど
そうでもないらしい
どうしてみんなよい詩を書くようになったんだろうと
考えているんですけど
どうもよくわからない
そこが明確にわかったらすごいなと
思うんだけど
そんなに簡単に分ることではないらしい
しゃにむに好きなことをやっていると
ご褒美のようにとどく場所がある
ということなのかな
と
そんなわかりきったことしか言えない
で
その話は終わりにして
今日は
参加者の一人が茨木のり子さんの詩に対して
返事をするような詩を書いてきてくれたので
それなら
せっかくだから
茨木さんの詩について
少し話してみようかと思います
茨木のり子さんといえば
今
本屋に行けば
必ず本棚に詩集がある二人の詩人のうちのひとりで
あるわけです
つまり
谷川俊太郎さんと茨木のり子さんの二人は
日本では
特別な詩人になっている
どうしてそうなのかなんてことを考えてしまう
もちろんこの二人の詩が
読者の胸をうつからなわけで
それだけの
単純なことなんだとは思う
それってすごいことだなって
あらためて思う
ほかの
たくさんの詩人ができないのに
この二人だけ
多くの人に通じる詩を書けるって
どういうことだろう
たぶんそういう能力って
努力してたどり着けるものではなくて
あらかじめ与えられたものなんじゃないか
って思うんです
たぶん本人も意識していないところにあるもの
だれも手を伸ばしても届かないもの
そういうものなんじゃないか
別の言い方をするなら
多くの人に通じる詩を書こうとして
通じたのではなくて
好きなことを好きなように詩にしていたら
それがたまたまたくさんの人の胸をうつ詩だった
そういうことなのかなと
思う
しつこいようだけど
多くの人がひかれる詩を書く詩人が
日本にはいるんだって
思うだけで
どこか
嬉しくなってくるところがある
もしもこの世に
谷川俊太郎さんと
茨木のり子さんがいなければ
本屋に行っても
必ず詩集が並んでいる詩人が
日本にはひとりもいないということになる
それは恐ろしいことだなと
思う
で
今日は
茨木のり子さんの詩集を読んで感じたことを
三つばかり話そうかと思います
まず最初は
「茨木さんが残したもの」という話です
(1)茨木さんが残したもの
茨木さんには
あまり有名でない詩にも
すばらしいものがたくさんあるんだけど
あえて
有名な詩を二篇
まず読んで見ようと思います
「自分の感受性くらい」という詩と
「もっと強く」という二篇です。
☆
自分の感受性くらい 茨木のりこ
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
☆
この詩は
構造として三行一連でできている
最後の連はまとめとして置かれているから例外だけど
あとの連では
最初の一行で実例を述べていて
二行目でそれに対する意見を言って
三行目でお叱りを述べている
この詩の魅力は
各連の最初の一行に対する共感
と
残りの二行に対する納得感
にあるのだと思う
それから
最後の連の
駄目押し的な決め文句のスッキリ感
そんなところなのかな
ここに書かれていることと
似たようなことを思っている人は
たくさんいるけど
こんなに切れ味のよい詩にできるのは
茨木さんだけだと思う
それではもう一篇を読みます。
☆
もっと強く 茨木のり子
もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石の鯛がたべたいと
もっと強く願っていいのだ
わたしたちは幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと
もっと強く願っていいのだ
わたしたちは朝日の射すあかるい台所が
ほしいと
すりきれた靴はあっさりとすて
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばしば味いたいと
秋 旅に出たひとがあれば
ウインクで送ってやればいいのだ
なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
おもいこんでしまった村と町
家々のひさしは上目づかいのまぶた
おーい 小さな時計屋さん
猫背をのばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに土用の鰻と会わなかったと
おーい 小さな釣道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ伊勢の海もみていないと
女がほしければ奪うのもいいのだ
男がほしければ奪うのもいいのだ
ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ。
☆
この詩の魅力は
なんと言っても最初の一行
「もっと強く願っていいのだ」のうっとり感にある
それほど凝った表現ではなく
だれにでも言える言葉なのに
考えてみれば
「もっと強く願っていいのだ」と
はっきりと誰かに言われたことがないように思う
心の中で
欲していた言葉にめぐりあった瞬間のような
感じがする
それから
詩の後半の
「女がほしければ奪うのもいいのだ
男がほしければ奪うのもいいのだ」
の所も
ぐさりとくる言葉だと思う
根源的な願いを
きれいに表していると思う
(共通するもの)
両方の詩を
僕なんか読んでいて
ぐさっとくるのね
どの一行も
僕に反省を求めている
背筋を伸ばして生きろと
どやされている感じがする
本当の意味で
お前は生きているかと
問われている気がする
僕はね
茨木さんって
もちろんいろんな詩を書いているんだけど
この二篇の詩が
その特徴を明確に表していると思う
これらの詩って
つまり「現代詩らしくない詩」なんです
言い方が変かも知れないけどね
今の
現代詩と考えられている詩では
ないような気がする
逆の言い方をするなら
もしも茨木さんのこの詩が現代詩なら
今
多くの人が書いている
あるいは
書こうとしている詩は
現代詩ではない
そんな気がする
茨木さんの詩が今の現代詩ではないと感じられる
その理由をいくつかあげてみます
① 誰でもが隅から隅まで分ってしまうようなことを書いている
② 言葉を飾り立てようとしていない
③ 情緒にもたれかかっていない
④ 理屈や論理や説明を述べているように見える
⑤ 自信あり気で迷いがない
ざっと考えただけでも
これだけある
今述べた五つのことって
僕は詩の教室をやっていて
詩作では避けなければならないこととして
話をしていることなわけ
やってはいけないこととして
とらえてきた
だから繰り返すけど
茨木さんの詩は
多くの現代詩と言われるものからは遠いところにある
むしろ
現代詩を両手で向こうへ追いやっているような詩
なんだと思う
私の詩は私の詩
今の現代詩がなんだろう
やってはいけないことってなんだろう
そんな茨木さんの声が聴こえてくる
こういうのが詩だよなんていう先入観に惑わされることはないんだ
自分が信じるものを書けば
それがまさに詩ではないか
そんなことを言っているような気がする
つまりは
誰の
どんな詩の書きかたにも
寄りかかっていない
そんな茨木さんの詩が
多くの人に読まれている
その事実が意味するものを
僕ら詩を書く人間は
もっと考えてもいいかもしれない
というより
考えるべきだと思う
だからって単純に
自分はこれから
① もっと誰でもわかる詩を書こう
② 言葉を美しく飾るのはやめよう
③ 叙情的にはなるまい
④ 事細かく説明をしよう
⑤ 自信たっぷりに書こう
と決意したって
ものごとはなにも解決しない
きっと気の抜けた詩にしかならない
茨木さんの詩のようには
読者に深く入っていけるものは書けない
なぜなら
人のやり方を真似たものっていうのは
自分からわき出てきたものではないから
要はそこなんじゃないかと思う
こうしたほうがいいとか
悪いとか
ではなくて
単にこうしたい
その欲求のもとに創作をする
それが大事なことなんじゃないかと思う
私にとっての詩
私にとっての現代詩を
それぞれの私が作る
そういうことなんじゃないかと思う
それから
茨木さんが残したものは
単なる詩作品ではなかったんだと
僕は思う
現代詩、いや詩
というものが抱える問題を解決してくれるヒントを
僕らに提示していってくれた
そんな気がする
なぜ詩は
読者になかなか届くことが出来ないのか
それをもう一度考えろよと
茨木さんの作品が僕を責めている
飾り立てることのない
風通しのよい
柱だけのような建物を
茨木さんの詩を読んでいると連想する
その建物がどれほど強靭かを
僕らは知っている
茨木さんのような詩を書こうよ
と
僕は言うつもりはない
茨木さんの詩が示しているのは
あえて言うなら
君らしい詩を
僕らしい詩を書けばいいんだ
ということなのかなと
思う
(2)詩ができあがるタイミング
二つ目に話したいのは
「詩ができるタイミング」についてです
茨木さんの詩って
妙な言い方だけど
書くべきおおもとがある詩なんです
つまり
なにもないところから詩は書かない
そういう人だと思う
書くべき実体があって
そこに言葉を添えて詩を書く
そう言うと
そんなの当たり前じゃないかって
言う人がいるかも知れないけど
当たり前ではないんだ
むしろ詩っていうのは
普通
書くことが何もない時に
書くものであるわけ
まず書いて
そこに書くことが後でくっついてくる
それが詩の通常の順番であるわけ
でも
茨木さんの場合はそうではない
まず書くことがあって
言葉はあとでやってくるんだと思う
ああ
こんなことを書こう
こんなことを書けば詩になる
という発想があって
そこに言葉が後で添えられて詩ができ上がってくる
で
これは茨木さんのエッセイで読んだんだけど
ある時
詩を書き上げたんだけど
どうもしっくり行かない
言葉が書きたいことに届いていない
ということが
あったらしい
書きたいことが十全に書けていない
ということが
あった
そういう時に
茨木さんは
その詩を書くのをいったんやめる
待つ
慌てて書き上げてしまわない
あるいは
書き上げても
何年か後に
もう一度書こうとしてみる
そうしたらスッキリ書けた
ということがある
そんなことを書いてあるエッセイを読んだ時に
僕は
詩っていうのは
それぞれに
生まれるべき「時」があるんだなと
思ったわけ
どんなに詩人が一生懸命になっても
詩が熟さない間は
書こうとしてもだめなんだ
年月が大切なんだっていうこと
その年月って
どんな年月?
って訊かれても答えられない
自分にとっての大切なテーマっていうのは
決してあきらめずに
時間を置いて
幾度も試していれば
きっと満足のいく作品にいつか届くことができる
詩作に大切な一つの要素は
慌てないこと
あせらないこと
未熟な詩を作りあげないこと
大切にテーマと向き合うこと
そんなことを
茨木さんは言っていたんだと思う
ぼくにも似たような体験があって
かつて
近くにいた人が亡くなったことを
詩にしようと努力をしたことがあった
でも
いくら頑張っても出来なかった
それで
もういいや
別に詩にする必要はないじゃないかって
思って
あきらめて生活をしていたら
十年以上も経ったある朝
俄に詩が湧き上がってきた
それで
「火山」っていう長い詩を書いたんだけど
その時に
ああそうか
詩には固有の
生まれてくる時期っていうのがあるんだなって
思った
(3)言葉からの詩、言葉でないものからの詩
三つ目の話です
「言葉からの詩、言葉でないものからの詩」
という話です
茨木さんは
言葉の前に
書くべきテーマや発想がまずあった
という話をしたばかりなんだけど
そうでない詩も
実はある
それで
その
書きたいことよりも
言葉の方が先に出てくる数少ない詩の一つが
「吹抜保」っていう詩
僕の大好きな詩でもある
読んでみます
☆
吹抜保 茨木のりこ
心はぽかん
秋の空
ぶらりぶらりの散歩みち
一軒の表札が目にとまった
吹抜保
ふきぬけたもつ か
ふきぬけたもつ か
吹抜家に男の子がうまれた時
この家の両親は思ったんだ
吹抜という苗字はなんぼなんでも あんまりな
親代々の苗字ゆえしかたもないが
天まで即座に ふっとびそうではないか
この子の名は きっかりと
おもしをつけてやらずばなるまい
吹抜保 いい名前だ 緊張がある
庭には花も咲いていて
一家のあるじとなった保氏は
なんとか保っているようだ
年はわからないが
たもっちゃん
ながくながく 保っておれ
☆
この詩は
言ってはなんなんだけど
それほど大切なことを書いているわけではない
歩いていて
人の家の表札を見てちょっと感じたことを
詩にしている
それだけ
それだけの詩なの
その
力の抜けた所が
読んでいて
こちらの力も抜いてくれて
妙に魅力的な作品になっている
考えてみれば
人様の苗字をあげつらうなんて
ちょっと失礼かとも思うんだけど
でも
かなりの愛情を込めてこの詩は書かれているから
書いてしまってもいいのかなとも
思う
詩って
あまり深刻がらずに
ちょっと感じたことや
どうでもいいことも
書いていいし
むしろそうした心持ちで書いた詩の方が
素敵な作品になることもある
っていうことを
この詩は
証明してくれている作品になっている
*
つまり
詩って
言葉からはじまるのか
言葉以外のものからはじまるのか
という話になるのかなと
思うんです
たまたまこのあいだ
横浜の詩の教室で池井昌樹さんと対談をしていた時に
池井さんが
「この詩は
トイレの扉をあけた瞬間にわっとやってきた」
という話をしていた
「それは言葉として来たの?」
と僕が訊いたら
そうではなくもやっとしたものだと言っていた
つまり
詩って
具体的な言葉から直接やってくることも
あるいは
もやっとしたものとして間接的にやってくることもある
ということ
言い換えれば
辞書を読んでいても詩は出来るし
辞書を閉じた外の世界からも詩はできる
せっかく二通りの詩の出来かたがあるのなら
詩を書くのに
どちらかに入り口を決める必要はないと思う
どちらの世界でも詩を書いてゆこうよ
その方が楽しいよということ
自由詩の自由を
楽しもうよ
ということ
なかなか思うように考えていることが詩にならない時は
ちょっと外を歩いて
看板や空を見てみよう
そうしたら別の入り口から
実に気楽に
詩が入ってきてくれることがある
言葉から詩を作りあげるのと
言葉以外の感覚から詩を作りあげること
二通りの書きかたを身に付けて
自分の詩の世界を豊かにして行きたい
茨木さんの詩を読んでいると
いろんなことを考える
今日はそのうちの三つだけ
話をしました
今日の話はそんなところです。