top of page
2019年10月の話(池袋「こじんまりとした詩の教室」)
 
​人生の音
​    
​松下育男

 

こないだフェイスブックに書いたんですけど

今回の台風十九号の被害のニュースを観ていたら

老齢で

足が悪くて

高いところへ登れなくて

奥さんの目の前で泥水に流された男性がいた

 

その男性が流れてゆく時に

奥さんに言った言葉が

「長い間 お世話になったね」

というものだった

 

このニュースを観た時に

ぼくはウチの奥さんと顔を見合わせた

 

たぶん

年をとった夫婦は

たいていそうしたろうと思う

 

自分だったらこんな言葉が

瞬時に

連れ合いに言えるだろうかとか

そんなことも考えたんだけど

それよりももっと大事なことがある

 

人の生き死にの前では

というか

生き抜いたことに対しては

言葉なんかどうでもいいのかもしれない

 

このニュースで僕が胸をうたれたのは

この言葉自体の衝撃もあるんだけど

この言葉を

奥さんに言い残すことのできた生き様

とでもいうのかな

そっちの方にうたれた

 

生き様

といっても

もちろん僕はこの男性の人生の

なにを知っているわけでもないし

この男性が奥さんとどのような日々を送ってきたのかも

何も知らない

 

知らないけど

最後に残した言葉を聴けば

まっとうに生き抜いただろう日々の

想像はつく

 

生まれ出て

生きていればいろんなことがある

いろんなことに出くわす

 

言葉っていうのも

そのウチの一つではあるけど

時と場合によって

言葉なんて何の役にも立たないという場面に

幾度も出会わす

 

人一人

人生を全うするには

言葉なんか出る幕じゃないという瀬戸際がある

何も言えないほど心細くてしかたがないという時がある

せっぱ詰まった状況がある

どうにもならない困難なことがある

無言を強いられる場面が

幾度もある

 

それで

詩を書いている僕が言ってはいけないんだけど

「ことばこそすべて

すべては言葉から始まる」

なんて

どこか大げさで

嘘っぽく感じられてしまう

 

現実の

大きな出来事の前では

どんな言葉も発せられない

どんな言葉も無力になる

そう思う

 

この男性が言ったのはだから

言葉じゃなくて

人生そのものの音なんじゃないか

人生の音なんじゃないか

 

僕らが詩を書く時に

頭をひねって

こね繰り回して

出してきた言葉とは違う

 

決定的に違う

 

奥さんに対する

長年の感謝と愛情そのものなのであると思う

 

言葉は気持ちの上にかぶさる

単なる包装紙のようなものでしかない

 

このニュースに僕が胸を打たれたのは

この男性が

気の利いた言葉を言ったからというよりも

そんな言葉が出てくるような人生を

連れ合いとしっかりと過ごし

大切な人には手をさし伸ばせるような心持ちを持っていた

ということだと思う

 

言い方を変えるなら

最後に

「長い間 お世話になったね」という言葉が

出てこなくても

奥さんの目をじっと見るだけでも

感謝と愛情は

伝わっていただろうと思う

 

でも

伝わっていたとは思うんだけど

言葉は

その思いを包む包装紙でしかないと

思うけど

 

奥さんにとって

その包装紙は

残りの生涯をも

時にあたたかく

包んでくれるものになるのではないか

 

その包装紙は

きちんと折りたたんで

常に持っていることのできる

お守りになるのではないか

 

詩を書くって

時に無力な言葉を扱うわけだけど

無力だけど

箱の中身よりも支えになるということも

あるんだと思う

 

(どんなふうに生きたか)

 

ここは詩の教室だから

より人の胸に通じる詩をつくるにはどうしたらいいか

ということを

学ぶ場であって

どんなふうに生きるか

生きたかってことを

語り合う場所ではない

 

宗教団体でもないし

人生相談の場所でもない

 

だから

生きるとは何か

なんて

おこがましくて言うことはできない

 

でも

個人的な意見を

言わせてもらうならば

僕は

書かれた詩と

その詩を書いた人の生き方は

離れ難く結びついたものであると

思う

 

もちろん

たとえば誰それという有名な詩人は

すぐれた詩はたくさん書いたけど

人間としてはひどかったとか

そういった話を聴くことはある

 

でも

一人の人を

人間としてはひどかった

って

いったい誰が決められるのだろう

 

明らかに人を不幸に落とし込んで

人をだまし

人をあやめ

というのは論外にしても

 

そうではなく

その人のやり方で

一生をまっとうした人を

だめな人だったかそうでなかったかなんて

誰が決められるのだろう

何人の人が協議をして決定できることなんだろう

 

ここにいる僕のことだって

ある人にとっては

ほんとにいやなヤツとして思われているだろうし

無礼な人間だと思われているかもしれないし

頭に来るから会いたくもないと感じられていることも

あると思う

 

人と

人の関係って

一人の人について

その瞬間を取って見れば

十点を付ける人もあれば

〇点を付ける人もある

 

そういうものだと思う

 

人の一生って

よいか悪いかの

一枚ののっぺりした板ではなくて

こまごましたことの

見ようによってはなんとでも見える

たくさんの集積だと思う

 

人間関係にしたって

こちらから見た時と

あちらから見た時の印象は

全く違う

 

何が言いたいかっていうと

 

優れた詩を書くために

言葉と正面から真剣に向かい合い

読む人にするどく通じる詩を書いた人に

どうしようもない人が

いるわけがないと

僕は思えてしかたがない

 

一篇の詩は

それ自身ではでき上がらない

 

その詩を書き上げたヒトが

必ずいる

 

どうしようもない人間の書いたものが

ヒトの胸をうつわけがないと

僕は信じたい

 

ひとつのことに専念しないと

秀でることはできない

 

ひとつのことに夢中になって

研鑽して

自分の文体を作り

なんとか思いを伝えたいと

日々思い詰めていた人を

僕は信じたいと思う

 

そばにいる人の思いを

敏感に感じられないで

どうして優れた詩が書けるだろう

 

人の痛みをわがことのように感じることのできない人が

どうしてすぐれた詩が書けるだろう

 

人生をともに生きてきた連れ合いに

澄み切った感謝の言葉を言えずして

どうしてすぐれた詩が書けるだろう

 

そんなふうに思ったわけです

 

だから

これはあまりにも単純で

頭の固い年寄が言うことのようで

ほんとは言いたくないんだけど

あえて言わしてもらうなら

 

生きることと

詩を書くことは

ぴったりとくっついているんだよ

ということなんです

 

詩を書く前にでも

書きながらでもいいけど

自分が浅ましい生き方をしていないかって

常に点検していたいと思う

 

点検し

目を凝らし

自身を見つめる目

こそが

翻って詩に生まれ変わるのだと

そう思う

 

「長い間 お世話になったね」

の言葉に匹敵する詩を

僕は書けたか

なんてことはどうでもいい

 

大切なのは

「長い間 お世話になったね」

の言葉に匹敵する態度と感性を貫いて

生き抜くことができたか

なのだと思う

bottom of page