

2019年6月の話
よいものを見つめてゆく
松下育男
今日の話の前に
さっき考えたことをまずひとつ話します
例えば
詩に書きたいことがあって
これはすごい詩になるぞと思って
必死に詩を書こうとしている時って
あると思います
そうしている間はすごく興奮していて
でも
詩ができ上がって読んでみると
なんか空回りしている
ということが
あると思う
つまり
詩を完成するためには
大きく分けて二つのステップがあって
一つ目は
ああこれは書けるぞ
これを書きたいという欲求段階
こころざしの段階
あるいは魂の段階と言ってもいい
それから二つ目の段階は
詩になるな
という感覚を
実際に言葉に変換してゆく段階
これは言葉の処理の段階
手さばきの段階とも言える
いくら書きたいことがあっても
自分の中だけで
例えばカーレースの詩を書こうとしていて
自分の中では轟音が響き渡っていても
それを的確に言葉にしなければ
その轟音の迫力は
人には聴こえてこない
つまりね
詩を学ぶっていうのは
その二つの段階を学ぶこと
これは書けるぞ
という魂の方は高揚しているんだけど
手さばきがどうもうまくいかなくて
でき上がった詩は勢いがない
というときは
どうしたらいいだろうという話です
ひとつの提案です
長い時間努力をして
あげくにからまわりした詩を書いた後で
おまけのように
二番目の詩が
ひょいと出来てくることがある
最初の詩を作ろうと思っていて
うまくできなかった頭が
ちょっと別のことを書いてみたっていう
力のはいっていない詩
そういう詩が
案外
正直に思いを表していて
読者にしっかり通じる場合がある
だから
言いたいことは
力を込めて書いたのに
うまくいかないときは
その日はいったんその詩をあきらめて
その頭のまま
別の詩を
ちょっと書いてみる
二つ目の詩を
書いてみる
そうして
一晩に二つ詩を書いたときは
二番目の詩を大切にしてみようということ
力を入れていないほうの詩から
学ぶところがあるんだよと
言うことです
すごいものを書こうと思って
すごい詩が書けたためしはない
単に
真っすぐに書いてみた
そういうものが
大切な詩になりうる
ということです
(今日の話)
さて
これからが今日の話です
今日の話は
「よいものを見つめてゆく」
というものです
このところ
萩原朔太郎や中原中也についての評論を
何冊か続けて読んでいます
その時に感じたことを
三つばかり話しをしようかなと
思います
(感じたこと一つ目)
一つ目に感じたのが
あるいは面白いなと思ったのが
これは朔太郎の方なんだけど
ある一時期に書かれた作品が
散文詩と見たらいいのか
評論と見たらいいのか
評者が迷っている
という箇所があった
確かに読んでみれば
評論でもあり
詩としても読めてしまう
区分けをしようとしても境目が見えない
ということがある
では朔太郎自身は
それらの作品をどういうつもりで書いていたのかというと
たぶん本人は
詩ではなく
評論を書いているつもりだったんじゃないかと思う
でも
書かれたものが
詩の方へ
勝手に足を踏みだしてしまうのね
そうなんだなって
思ったの
詩人って
さてあらためて
詩を書くぞ
と思って詩を書くのではなくて
なにを考えても
それが詩そのものになってしまう人
そういう人のことを言うんじゃないのだろうか
中原中也の方もね
人生そのものが詩だったとか
本人が詩のようだったって
言われているわけでしょ
この教室でめざすところは
だから
すぐれた詩を書こうよと
するだけではなくて
あなたがたそのものが
詩に
なってしまうこと
何を考えても詩になってしまうこと
いやになるほど詩が
まとわりついてくること
ただ呼吸をするだけで
それで詩ができ上がってしまうこと
そういう人に
なって欲しいと
僕は思うわけ
(感じたこと二つ目)
二つ目に感じたことです
読んでいると
詩人論だから
とうぜん作品の引用がたくさん出てきます
前にも話したけど
評論に引用された詩作品の断片って
すごく素敵に見えるものなのね
ここぞという箇所が引用されているわけだし
なんというか
格言や名言みたいに
断片だからぼろが見えない
というか
書いてあること以上によく見える
というところもある
ドラマなんかで
キルケゴールの言葉がちょっと出てきたりすると
すごいな
生きていることの意味が分っているな
と思って
でも
それならばと
Amazonかなんかで
キルケゴールの本を買っても
本当の本はなかなか読み出せない
そういうところが
引用された詩にもあって
引用された詩を
詩集の中で
つまり本来あるべきところであらためて読むと
さほど感動をしなかったりする
で
これは並の詩人の場合なんだろうなと
思う
でも
朔太郎とか中也って
特別な詩人だし
大抵の人が散々読んできているから
引用された詩が
特段目立つことはないんじゃないかと思って読む
でも
読んでみると
ほかの詩人と状況は変わりはないのね
見知らぬ詩人の詩を読んだ時のように
詩の断片に
感動してしまう
「竹が生えそめ」
にしても
「ゆあーんゆよーん」
にしても
相変わらず
うっとりとしてしまう
そんな時
詩を読むってなんなんだろうなって
少し考えてしまう
本来ある詩の中にある状態よりも
そこから切り出して
別の場所に置いておいた詩の数行の方が
光りだす
それってどういう仕組みなのだろうと
思うわけね
その仕組みがわかれば
自分が今書いている詩も
さらに磨き上げられるのではないのかなと
考えてしまう
かといって
詩を書く人って
格言/アフォリズムだけでは満足できない部分も
あるわけ
引用詩を読んだだけで
詩を読みましたとは
胸を張って言えないなという気持ちも
確かにあるわけ
(感じたこと三つ目)
で
評論集を読んでいて
三つ目に感じたことです
それはなにかっていうと
これも引用された詩作品についてなんだけど
さっき言った
引用された詩は感動的だというのとは
正反対の現象もある
読んでも
なんにも感じない詩というのがある
そういうのが
朔太郎にも中也にもたくさんある
それがちょっと驚きだった
つまり
僕が読んでいたのは詩人についての評論集だから
朔太郎の詩っていっても
全盛期の
日本の現代詩のおおもとを築いた時期の詩だけではなくて
初期の作品や晩年の作品
あるいは
迷っていた時期の作品も引用されている
詩人論を書こうとする人は
その詩人の一時期だけについて
書くわけには行かないんだろうな
という気持ちはわかる
でも
そうあるべきなのかなっていう思いも
ないわけではない
ひとりの詩人の
つまらない詩もわざわざ引っ張り出してくることに
何の意味があるんだろうって思ってしまう
僕は研究者でもなく
学者でもないから
たんなる詩人だから
どうしてもそう思ってしまう
中也も同じ
ありふれていてつまらない作品なんかもある
でも
時折に目の前に出てくる
なんというか
中也の決め言葉には
完全にやられてしまう
なかせどころと言ってもいいかもしれない
そういうの
いくらでもあるわけなんだけど
みんなには送ったので
ここでは全部は読まないけど
そういうのがたくさんある
******
(中也の詩から)
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
(「春日狂想」)
手にてなす なにごともなし。
(「朝の歌」)
はては世の中が偶然ばかりとみえてきて、
人はただ、絶えず慄へる、木の葉のやうに
(「倦怠」)
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
(「いのちの声」)
ああ神よ、私が先づ、自分自身であれるやう
(「寒い夜の自画像3」)
ーー失はれたものはかへって来ない。
なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
(「黄昏」)
ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。
(「春宵感懐」)
あゝ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ
(「帰郷」)
わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞じらふ……
(「含羞(はじらい)」)
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処で待つてゐなくてはならない
(「言葉なき歌」)
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ
(「頑是ない歌」)
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
(「汚れつちまつた悲しみに」)
******
たくさんあるから
いちいち読みません
でも
こうして引用詩を見渡してみると
中原中也って
なんとも無防備な詩人だなって
感じる
なんというか
ごくごく一般的な感情を
そのまま前面に出して詩を書いてしまっている
そんなことをしても大丈夫だろうか
ほかの詩人に馬鹿にされないだろうか
と
勝手に心配になってしまう
でもたぶん
中也はそんなこと
どうでもよかった
馬鹿にされるとか
表面的な感情でしかないと見られるとか
どうでもよかったんだと思う
自分が書きたいことを
書きたいように書く
人に責められるような弱みが
見えようがどうしようが
書きたいから書く
ここのところ
詩を書くものとして
肝に銘じておきたいと思う
詩を書いていると
どうしてもまわりの状況とか
こうあるべきだとか
こうしたほうが気に入られるのではないかとか
今さらこんなものとか
人間だから思ってしまうけれども
せめて
詩を書くときくらい
思い通りに書きなさいと
中也は言っているような気がする
弱みがなんだろう
情けなさってなんだろう
そこにこそ
自分があるんじゃないか
だとしたら
そこを書いていく以外にないじゃないか
それまでの日本の詩を分析して
その総まとめとしての詩を
僕らは書いているのではない
ここにある
ちっぽけなこころをひとつ差し出す
それでいいのではないかと
いうことなんです
(生き方)
僕が中原中也に惹かれるのは
もちろん作品のすばらしさによるわけだけど
その生き方にもある
「四季」とか「歴程」の同人ではあったけれども
基本はひとりで書いていた
確かに「文学界」から注目を受けて
当時から
有名な詩人ではあったわけだけれども
どこか
詩壇からも遠く
ひとりで背を向けて
純粋に詩と取り組んでいた姿が
思い浮かべられてしまうし
なによりもそれがいいなと思うわけです
詩を書くのに
自分と詩と
それ以外になにもいらないんじゃないのっていう感じ
そういうところにもひどく惹かれる
でも
中也の詩って
すごいのばかりではない
つまんないのもたくさんある
あたりまえではあるんだけど
なにが言いたいかっていうと
他の人は知らないけど
僕にとって大切な中也は
全生涯のすべての作品ではなくて
その一部分なの
僕は読者として
一人一人の詩人の全作品と立ち向かっているのではなくて
その詩人の一部を享受し尊崇している
それで十分なわけ
いいとこどり
それが読者の権利であり
幸福でもある
どんなにすごい詩人も
目も当てられない詩を書く
どうしようもない詩も書く
そういうのをわざわざあげつらうようなことはしたくない
一人の詩人を理解するためには
全作品を受け止める必要はなくて
感銘を受けた詩集の
とりわけすばらしい詩だけを
繰り返し読んでいていい
(いいところだけ見えるように)
朔太郎や中也は
言うまでもなくすばらしい詩人だけど
こんなにつまらない詩も書くじゃないか
と
偉そうに暴くことが
詩を読むっていう行為ではない
その詩人の
すぐれたところが見えていればいい
欠けたところなんか
だれにだってあるわけだから
そんなところに目を向ける必要はない
(詩の読み方)
そういう感じ方
読み方って
僕の中にずっとあるものなわけ
それは有名な詩人の詩を読むときだけではなくて
この教室についても同じ
参加者の詩の
欠けたところ
つまらないところを
あげつらうよりも
この詩はすばらしい
あるいは
この詩のここの部分はすごい
あるいは
僕には今ははっきりとは言い表せないけど
この詩のどこかにすぐれた要素があるような感じがする
あるいは
これから面白くなりそうな予感を感じることが出来る
そういった観点から
いいところを中心に見ていきたい
読んでいきたいと
思っています
もちろん
ここは直したほうが将来その人のためだと思えば
指摘はするけど
基本は
それぞれの人が持っている個性の魅力を見つめて
引き出していきたいと思っている
朔太郎や中也だってそうだったんだから
どんな詩人も
完璧ではない
どんな詩も
完璧にはなりえない
ただでさえ大変な日々に
詩のだめなところを見つめて
がっかりしているよりも
うじうじ考えているよりも
優れたところを見逃さずに
そこに焦点をあてていきたいと思っている
人の詩を読むときに
その詩のどこが輝いているかに目を凝らす
その輝きの反射として
自分の詩を伸ばす
これがぼくの詩の読み方
人の詩のつまらないところを見つめるよりも
優れたところに目を凝らしていたい
そこから役立つものを
僕も吸収していきたい
人の詩の
どこがどんなふうに素敵なのかを
見つけて
それを言葉で表現するっていうのも
ひとつの大切な詩の訓練であると
僕は思う
詩を読むときには
その詩のどこが優れていて
その優れたところをどうやって人に説明できるかを
考えてみようよ
ということ
いいところを見つめる
そのための目でありたい
ということです
今日の話はここまで