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2018年7月の話
 
​詩の基準
​    
​松下育男

 

 

今日話すのは「詩の基準」っていう題。

 

このあいだフェイスブックやツイッターには

「余計なこと」っていう話をするって書いたけど

なんか、詩を書くことが余計なことっていうふうにとられそうで

題名が誤解を招きそうなので

「詩の基準」に変えます

 

で、話の発端は

「どうして自分が書いたものって正確に(正当に)読み取れないんだろう」

っていうところ

 

僕もこの教室で

みんなの詩について、

自分の感想を、確信あり気に話しをしているけど

 

いざ自分が

たとえば今朝書いた、ほやほやの詩について

それがどれほどのものかって聞かれた場合

うまくは答えられない

 

書いたときは

書くという行為に

言葉を探すという行為に興奮しているから

それがどれほどのものかなんて

考えない

 

というか

その度に

すごいものを書いたって思うわけ

 

でも現実は

そんなに書くたびにすごいものが書けるなんて

あり得ないわけで

 

たいていはつまらないものを書いているはず

 

でも

それがつまらないものかどうかって

自分が書いたものが価値のないものだなんて

思いたくない気持ちが根底にあるから

目がくもる

 

よっぽどひっどいものは

さすがにわかるけど

そのよっぽどひどい一歩手前の出来でも

判定がつかない

あるいは

よいものだと思ってしまう

 

人の書いたものって

それなりに評価の基準点が見えるんだけど

自分の書いたものって

いつだって基準とするものが見えない

というか

基準点が勝手に動いてしまう

 

それって

なにも詩に限らず

たとえばツイッターに載せる気楽な文章にしても

自分が書いたものって

その価値がなかなか推し量れない

 

だから

自分が書いたものって

いつだって恐い

 

こんなにひどいものを書いてしまって

いつかきっと

どこかで復讐されるのではないかって

恐れながら僕はものを書いているような気がする

 

だったら詩なんか書かなければいいじゃないかって

思うけど

そう単純ではないわけ

 

やはりこれも

自分の中のどこかに

そういう復讐を受け入れたいという思いがあるんじゃないかって思うわけ

 

でね

この

自分が書いたものが読めないって言うのは

この教室に来ている人も

たぶん似たようなことを感じている人がいるんだと

思う

あるいはたいていの人は

そうなんじゃないかって思う

 

だから書いたものをわざわざここに持ってきて

僕の感想や廿楽さんの感想を聞いているんだと思う

 

そうすると

自分が思っていた自分の詩の感じ方と

人が感じているものとのギャップがわかって

 

そうか、そうなのか

人にはそう読まれるのか

というのが分かるのだと思う

 

同人誌なんかやっていると

合評会っていうのがあって

それぞれの詩について評価しあう

 

たいていの同人誌には

たいした詩を書かないのに

ひとの詩に対してだけは辛辣にものをいうっていう人が

一人か二人いて

 

そういう人って

人の心を思いはかるっていうことをしない人で

言い換えれば正直に人の詩のだめなところを指摘してくる

 

そういう人に

自信をもって出した詩が

思いの外

けちょんけちょんに言われてしまうことがある

 

一方

いつものパターンの詩で

面白くないけど

ほかに出すものがないから出したっていう詩が

思わぬ好評価だったりすることもある

 

その

人の読み方との違いがあるって

仕方がないかなって諦めているけど

それでいいのかなって思うわけ

 

それでいいのかな

すますには

問題が大きすぎるような気がするわけ

 

詩を書いていて何が一番悲惨かって言うと

つまらない詩を書いてしまう

っていうことではなくて

そのつまらない詩をつまらないと気づかないことにあるわけ

 

つまらない詩をつまらないとわかりさえすれば

では

これとは別の詩を書かなければとか

やっぱり今はいいものが書けないからしばらくやめておこうとか

分かるわけで

ナントでも対応ができる

 

僕は

優れた詩人っていうのは

そういう能力をもっている人のことを

言うんだと思う

 

決して失敗作を書かない

っていうのは

失敗作を書かないのではなくて

失敗作を書いてしまっても

すぐにそれと感知する能力があって

その失敗作を人に見せない人のことなんだと思う

 

優れた詩人っていうのは

自分の詩を正当に読む能力のある人のことを

言うのだろうなと思う

自分がつまらないものを書いたときに

これはつまらないものだということが分かる人のことなのだろうなって

思うわけ

 

だからここで

本当はその

なぜ自分の書いた詩は正しく読めないのか

目を曇らせるのは何なのかということを

深く考えたいんだけど

そうたやすく取り組んで

解決のつく問題ではない

 

今日できることはせめて

そのことに対する対処法

 

そういう自分の詩が読み取れないという

つらいところを

なんとか緩和できないかっていう対処法を少し

考えてみたいなというのが

今日の話の目的なわけ

 

 

話はとぶんだけど

先日

尾形亀之助を読んでいて感じたことがあったわけ

 

何を感じたかって言うと

 

「詩を書くって、場合によって余計なことをしていることなのかな」

っていうことなの

 

「障子のある家」って、有名な詩集だから読んだことのある人は多いと

思うんだけど

ほとんどが散文形式で、なんていうか「そのままの詩」なわけ

感じたこと、見ていること、そのまま文章にしている

 

書いていることを飾ってみたり

散文詩だから、改行詩とは違ったよさを出そうって努力してみたり

可能性を探してみたり

そういう策を弄していないわけ

 

あったことをそのまま

ちょっと思いついたつまらないことをそのまま書いている

 

それもある種の技術じゃないかっていえばそうなんだけど

そういう議論はさて置いて

 

とりあえず

詩がそのままなの

 

ひとつ読んでみます

「へんな季節」という詩の最初の連です。

 

**

 

「へんな季節」   尾形亀之助

 

次の日は雨。その次の日は雪。その次の日右の眼ぶたにものもらひが出来た。

午後、部屋の中で銭が紛失した、そして、雨まじりの雪になつて二月の晦日が暮れた。

少しでも払らはふと思つてゐた肉屋と酒屋はへんに黙つて帰つて行つた。

私は坐つてゐれないのでしばらく立つてゐた。ないものはないのであつた。盗つたことも失くなつたことも、つまりは時間的なことでしかないやうだ。

天井に雨漏りがしかけてきて、雨がやんだ。

 

(後略)

 

**

 

まあ

「つまりは時間的なことでしかないやうだ」のところを除けば

これって

日記とどう違うの?

って思うわけ

 

日記って言うと

紙に書いて日付を書いて、その日の天気を書いてっていう

やつね

 

フェイスブックやツイッターも一種の日記じゃないかっていう

考え方もあるけど

あれは人が読むのを意識しているものだから

ずいぶんけれん味が入ってきていて

素直な日記じゃない

 

僕が言っているのは

昔からの日記

 

ひたすら書かれて

その人が死んだら

親族の何人かがぱらぱらってめくって

そのまま忘れられてしまう文章のこと

 

一人の人が

生きていた証がそのまま文章になっていて

だから

ホントに正直に書かれたもの

(まあ 正直かどうかっていうのは、若干そうでないものもあるかも知れないけれども)

 

でね

そういう日記にすごく近い亀之助の詩を読んでいると

詩ってなんだろうって

いつもの疑問が湧いてくるわけ

 

僕は最近

投稿詩の選評を雑誌でやっていて

何百もの詩を毎月集中的に読んでいるんだけど

 

なんていうか

もちろんいろんな詩があるんだけど

 

どの詩も

基本的には

人に読まれたときにどうなのか

っていう恐れを持って書かれている

 

それって当たり前といえばあたりまえなんだけど

 

それって

なんていうかな

文章をねじ曲げているわけ

事実をねじ曲げている

考え方をねじ曲げている

そんな感じがするの

 

日記とは違うわけ

 

ねじ曲げることが詩の技巧で

つまりこのねじ曲げるって言うのは

比喩だとかなんだとかの

技巧も含めて

とにかく人を感動させるための手練手管が

詩には入っているわけ

 

でね

その投稿詩を読んでいると

あたりまえなんだけど

その手練手管の集合体なわけ

 

これって

投稿者の詩だけじゃなくって

僕の詩もそうだし

廿楽さんの詩もそうなわけ

 

そのねじ曲げがあるから詩として成立しているんだけど

さっき話をした日記のことを考えると

日記って

そういうねじ曲げや手練手管から遠い書き物なのかなって思うわけ

全くそうではないとは言わないけど

 

ちょっと分かりづらいいいかただけど

つまり言いたいことは

 

詩の中には

詩として成立させるための手練手管を弄することによって

かえって

人の胸をうつことのできないものにしているものが多い

多くなっているんじゃないの

って感じたわけ

 

無理をして、なにもしていないありのままの日記よりもむしろ感動できなくしている

 

そういう詩がたくさんある

 

前へ進もうとする意思があるんだけど

脚に力をこめて実は後ろに下がっていた

 

そういう苦しい夢のようなことをしている詩がたくさんある

 

投稿詩を読んでいるとね

この人はこんなに詩がへただけど

たぶん日記を書かせればこんなにひどいものにはならないだろうな

と思う人がいるわけです

 

もしその人に個人的に会うことができるなら

まず日記を書くように詩を書いてみたらどうでしょうって

アドバイスをしたい

それからその詩に

ちょっとした思いの丈を

飾りつけのように足してゆくところから始めたらどうだろうって

アドバイスをしたい

 

そういう人が結構いるわけ

 

日記のように普通に書いていればそこそこ人に伝わるものを

無理して技巧を弄して

かえって訳の分からないものにしている

 

そういう詩がたくさんある

 

それが悪いって言ってる訳じゃなくって

そういう詩がたくさんあるって言っているだけ

 

つまりね

ひとことで言えば

そういう人は

余計なことをしているっていうこと

 

それは投稿の人だけの問題ではなくて

僕自身もそうだし

ほとんどの詩を書く人にとっても

落ちる可能性のある落とし穴なわけ

 

だから

ひとつの詩を書いたときって

その詩が

自分の日記の文章よりも

上等にできあがっているかどうか

日記よりも勝っているか

って判断してみる

 

せっかく詩を書いたのに

日記にくらべて読む価値がないものになっていはしないかって

見てみるのも

自分の詩の評価をするひとつの基準じゃないかなって

思うわけです

 

日記を基準点に置く

これが対処法のひとつ目

 

詩で

だいそれたことを書こうとするから

詩ともいえない

わけのわからない奇妙なものを

ときどき書いてしまうわけ

 

詩が書けないときはいったん日記にもどって自らを知る

 

詩を書いたときには日記よりましかどうかを判定して見る

 

そういう考え方もあるんじゃないかなって

尾形亀之助を読みながら考えていたわけ

 

 

でね

考えをもう少し先まで進めて

対処法の二つ目の話です

 

もしかしたらこれまで言ったことと矛盾するかも知れないんだけど

 

さっき

対処法の一つ目として

日記を基準点にして自分の書いたものを評価すれば

ひどいものを発表してしまうことから

避けられるんじゃないかって

そういうことを言ったんだけど

 

それでもやっぱり

書き物ってそんなに単純じゃないから

どうしても

つまらない詩を発表してしまうことって

あると思うわけ

 

あとで考えたら

どうしてこんなのを出してしまったんだろう

 

どうしてそれが分からなかったんだろうって言うのが

あるわけです

 

でね

僕が言いたいのは

それってある程度

仕方がないことなのかなって言うこと

 

だって

詩を書くって、いったん日記よりもつまらなくすることなんじゃないのかなって思うから

 

つまりね

起きたことを起きたままに書けば

それはまさに日記で、そのまま人に読んでもらえば伝わる

 

でも

それでは

その伝わりかたでは満足できないから

わざわざ詩を作るって言うことで

 

なんていうか

車の運転で

上り坂の途中に停車していて

さて動こうとしてブレーキを外す

その瞬間いったん坂を後ろへ一瞬下がるでしょ

あれと同じ

 

詩を書こうとすると

日記よりもいったんつまらないものになる

伝わらないものになる

そうすることによって先に進める

日記を追い越せるわけです

 

いったん文章を壊し

伝えかたを壊し

言葉を壊し

自尊心を壊し

っていうふうに

詩を書くっていったん伝達を壊すことなのかなって

そうも思うわけ

 

詩を作るに当たって

その壊れたところから

また少しずつ作品の中で坂道を上ってゆくわけ

伝達を構築してゆくわけ

金型を作り上げてゆくわけです

 

だから

一部の詩が

日記よりも面白くないからといっても

それは当然なわけで

だから詩が日記に戻ればいいとは言いたくない

 

日記よりもすごいものを書くんなら

とうぜん日記を手本にはできない

 

さっき対処法の1でアドバイスをした

いったん日記にもどるっていうのは

もっと詩のことや

ものを作ることが見えていない人に対する

アドバイスであって

 

ここで

日記に戻るな

日記よりもつまらなくなるのは当然だから

って言っている相手は

それなりに創作に

打ち込んできた人に対して言っているわけ

 

つまりね

書いたものが

日記のところからいったん下がって

まだ上り始めてもいないものは

その時点のものは

つまらなくて当たり前だということ

 

きちんとその状態を理解して

その時点の作品は人に見せるのはまだやめようよということ

 

まだ作品として

いちにんまえではないよという事

 

ひどい詩をひどいとわからずに発表してしまうことの

対処法の二つ目は

 

そうなってしまう可能性を見つめて

ひどいものを作ることもあるという自分を

責めないこと

気にしないって言うこと

 

そうなってしまうことは往々にしてあることだし

ものをつくるっていうことの宿命だと思う

 

真剣に取り組んでいるからつまらないものができてしまう

そのつまらないものは

そうでない作品へのとっかかりでもあるんだって考える

これが対処法の二つ目

 

ダメな詩を書いて

発表してしまったとしても

そんなにがっかりしないことだと思う

 

あんまり自分を責めない

 

それがダメであればあるほど

そこからの力というか

エネルギーってすごいものがあるはず

 

ダメな詩を発表したというのは

自分がダメな詩を書いてしまった

というよりも

もっと優れた詩になるはずの詩を途中でうっかり手放してしまった

っていうこと

 

うっかりなんだ

 

自分のことを言うのも恥ずかしいんだけど

僕はホントに昔からダメな人間なわけ

 

ずいぶん長く詩を書いてきたけど

自分が書いたものの姿がいまだに見えてこない

 

若い頃

20代の半ばかな

「詩学」っていう雑誌があって

そこで新人特集をするというので編集者から原稿依頼があった

 

ぼくは最初の詩集を出す前だったと思う

そこには最近出てきた新人の作品が15人くらい

載る予定だった

 

僕も依頼の期日までに作品を送っていて

その号が出て

自分の作品がどの辺に載っているかなと思いながら

目次を開いたら

普通は自分の名前ってすぐに見つかるんだけど

ないわけ

 

あれって思って

じっくり探してもない

ほかの人はみんな載っているのに

ないわけ

 

なにかの間違いじゃないかって思って

編集部に連絡したら

没だっって言われた

 

すごいショックだった

 

ひどいできの詩だというのが理由

 

ホント

見事な理由だった

 

投稿した詩が載らなかったわけではなくて

依頼されて送った詩が

わざわざ没になった

 

15人の新人が依頼されて

依頼されたんだから普通は載るのが当たり前のところに

あえて没にされたわけ

 

僕はものを書いていて

その時のことをずっと忘れていない

その詩も覚えている

 

褒められた詩は忘れても

その詩だけは忘れない

 

ずっと僕の記憶にあって

僕に語り続けている

 

おまえはこういう詩を書いて

こういうことを経験したんだって

いつも僕に話しかけてくる

 

それを考えると

そういう経験をしてそれで良かったのかなと

思っている

 

今の僕のために

あの時の僕が恥をかいてくれたんだって考えているわけ

 

どんな経験も

それが恥ずかしいものであればあれほど

自分に教えてくれるものは大きい

 

たとえひどい詩と気づかずに

人に見せて

さんざん批判されても

それを受け止めようよ

ひどければひどいほど

僕を支えてくれるものになるのではないか

って思うわけ

 

今日の話をまとめます

 

どうして自分の詩を正当に読めないのか、その理由まだよくわからない

 

でも対処法はある

 

対処法1

書いた詩がひどいものかどうかを判定するには、日記と比べてみる

 

対処法2

それでもひどい詩を発表してしまったら

これから先のために教えてくれているものだと思う

 

っていうこと

 

ひどい詩を書く人は

そのひどさの幅の大きさ分のすごい詩を書ける人なんだって

思う

 

今日はそんなとこ

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