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2018年3月の話
 
​少し話し、少しはみだし、少し伸び上がる
​松下育男

 

 今日は「少し」という話です。少しだけが大切だよという話。一気に何かを変える必要はないんだ。少しずつでいい。少しずつが強い。無理に自分を追いつめない。かといって現状にゆったりと凭れかかっていては、それもダメなんじゃないのっていう話。

 で、題は「少し話し、少しはみだし、少し伸び上がる」。3つの短い話をしようと思う。

 初めは、「少し話し」。

 この教室で僕がよく言っているのが「自分の声を聞こうよ」ということ。自分が何かを発言してそれを自分の耳を通じて聴くことは、発言しないで心の内で思い浮かべていることとは違う。

 昔の話だけど、ひとつ思い出すことがある。それは詩人のAさんの家に遊びに行っていた時のこと。ある日Aさんが、「松下さん、これ新しい詩集」って言って1冊の詩集を手渡してくれた。もうすでに評価の定まっているAさんの新詩集だから、僕はありがたくいただいた。で、目次を見ていたら、Aさんが「この詩ね」と言って目次に並んだ詩の題名のひとつを指差して言う。「この詩ね、松下さんがいいって言っていたことがあったから、それで詩集に載せた」。そういえばそんなこと言ったことあったかなと僕は思い出して、でもその言葉は会話の中のホントに目立たない一瞬の言葉だった。

 その時に思ったのが、「あれほど評価されている詩人でも、自分の詩について何かを言ってもらった記憶は、彼の中に大切に受けとめられているんだな」ということ。ましてほとんどの詩人にとっては、自分が書いた詩について、だれかが何かを言ってくれるなんてことは滅多にない。つまりね、どこかで誰かが君の詩をいいなと思ってくれていたとしても、それは君のところには伝わってこない。

 だから、僕が言いたいのは、この教室でも、あるいは帰り道でもいいから、「ああ、この詩はわかるな、この詩はいいな、この詩はなぜか気になるな」と感じたら、それを声に出して言ってほしいということ。思っているだけではその言葉は作者のもとへは届かない。言ってくれた言葉で、どんなに作者は励まされるかしれない。勇気をもって次の創作に向かえるというわけ。それに、言われた方だけではなくて、それって、言った本人のためにもなる。言わないで思ったことって、たいていそのまま忘れてしまう。でも、言った言葉は、「私はあなたの詩が気に入った」という言葉は、言った本人の感性のありかを定めることでもあるわけ。自分はこんな詩が気にいるんだな、こういう詩を目指しているんだなと、自分の感性の有りどころを知ることができる。自分の詩のありかや、行く末を思うことができる。

 詩の世界って、もっと「あなたの詩が好きだ」と、表明し合った方がいい。理由とか、分析とかは後回しでいいから、とにかく、「あなたの詩が気になる」と感じたなら、ひとことでいいから言ったほうがいい。大げさでなくっていいから。

 じゃあ、読んだ詩があまり面白くないなと思ったらどうするかっていうことだけど、それも言ってあげてかまわないと思う。でも、慎重にやる必要がある。というのも、現代詩って、みんなも感じているだろうけど、時々、自分の読みではたどり着けない詩って、ある。つまり、面白くない詩だなと感じた時に、その感じ方には2種類の理由があって、ひとつはその詩が本当につまらない詩だった時、もうひとつは、自分の読みがその詩の魅力を感じとることが出来ないだけという時。だからこの詩はこうした方がいいのになと言ってあげることはいいけど、面白くないからってただ糾弾するのはすごく危険だと思う。

 でもね、この詩はいいな、この詩は素敵だなって思うことは、それはそのまま、読み手にとっていい詩であり、素敵な詩であるわけだから、ためらいなく言ってあげたほうがいい。

 自分はあなたの詩を支持しますと、伸びをするくらいに手を挙げる。そんな気持ちで静かに、言ってあげたほうがいい。

 

 2つ目の話は、「少しはみ出し」っていう話。

 僕は昔、近親者を亡くした時に、それを詩にしようとしたことがある。亡くなって半年くらいが経ったころだったと思う。その時の感情を、それまで学んできた詩の技術で詩を書いた。詩は書けた。でも、なにかが足りないと感じるわけ。近くにいた人を亡くした喪失感を丁寧に書いても、どうもものたりない。詩としてね。だからそれはどこにも出さなかった。それから何十年か経って、またそのことを詩に書いている自分がいた。その時に、ほんとうの詩を書こうとするなら、「はみ出さなきゃいけないんだ」ってことを感じた。

 前に書いた詩がつまらなかったのは、人の死を書く時には、ここまでは書いてもいいけど、ここから先はあまりよろしくないんではないかという、何か、境界線のようなものを決めていたからなんじゃないか。ここまでなら書いてもいいという先入観に縛られていて、だからその先入観って、他の人とも共有しているものだから、書かれた詩は、ほんとに当たり障りのない内容でしかないわけ。

 もちろん自由詩っていうくらいだから、何を書いたっていいわけなんだけど、でも、どこかに、このテーマで詩を書くときにはここまでは書いてもいいんだけど、これを越して書いたらまずいんじゃないかっていう壁を持っている。

 この教室を始めて毎回20何篇の詩を読んでいるわけだけど、いいなと思う詩って、ひとことで言えばありふれていないのね。どこかが普通の詩とは違う。その違いって何かって言うと、「境界線を少しはみ出している」から。みんなが現代詩とか、表現に対して持っている常識を、ちょっと踏み外しているからなんだと思う。

 少しという所が大切。あんまり踏み出してしまうと、だれもついてきてくれないし、人を傷つけることだってないとは言えない。

 詩を書いていて、どうもいつものパターンで面白くないなって感じたら、そこでいったん立ち止まって見る。いつもならこの詩はこんな感じで書き終わるという、その道筋を外れてみる。ただ外れるのではなくて、自分の深い思いの方へ少し外れてみる。その「少し」が、詩に命を与えてくれるんだと思う。

 最後の「少し伸び上がる」です。

 これはホントに単純な話。ちょっと精神論みたいでいやなんだけど。

 誰しも能力には差がある。経験にも差がある。環境にも差がある。でも、問題にすべきはそういった人との差ではなくて、昨日の自分との差だよということ。つまり、昨日と同じ知識で、同じ感情で、ただゆったりしているのもいいけど、それじゃあ昨日よりすぐれた詩はなかなか書けない。

 生きるって、昨日までと同じことをすることではないはず。いつも自分より高いところにあるものに向けて背伸びをしていたい。背伸びをするために持ち上げたつま先の痛みを感じていたいと思うわけ。今はこんな詩しか書けないけど、ずっとこんなではないはずだと信じて、少しはましになりたいと常に思っていることが、やっぱり重要だと思う。

 少しはましなものを書きたい。もっと鮮やかな詩を書きたいと思えば、自然にそっちの方へ向かってゆくはず。そっちの方へ向かうための勉強やそれなりの行動をするはず。

 昨日より少し、詩を読めるようにする。
昨日より少し、知っている詩人の数を増やす。
昨日までは読まず嫌いだった詩人で、でもみんながいいと言う詩人を今日は読んで見る。

 少し伸び上がることが大事。「少し」がすべて。

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