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2018年2月の話
 
​なぜ詩を書くか
​松下育男

 

 今日は「なぜ詩を書くか」という話。

 一週間くらい前にフェイスブックとツイッターで、「次の詩の教室での話は、なぜ詩を書くかというテーマにしよう」って書いて、そのあとに、「参加者からもそれについて話してくれると嬉しい」って書いた。そうしたら谷口さんからさっそく返事が来て、「わたしはものを作りたいから書いている」っていう内容だった。そうだな、それも正直だなって思って、では僕の場合はどうだろうって考えた。

 ものごとって、一歩引き下がって、それ自身を受け止めるようにして考えながら取り組むのと、なにも考えずにやりたいことをやっているというのでは、おのずと違うものが出来上がるんじゃないかと思う。なんだか詩が書けちゃうからただ書いているっていうのも、楽しいならそれでもいいんだけど、でも「どうして詩なんか書くんだろう」って思って、その思いの上で書いた詩は、やっぱり深さが違うと思う。どうして詩を書いているかっていう切ない問が、しっかりと詩の中に組み込まれるはず。

 もともと詩を書くっていう行為はすごく変なものだと思う。紙や画面に向かって、自分の考えていることや思いつきを書き留めるって、すごく妙な行為だなと思う。なんでそんなことを自分はしているんだろうという、その思いにしっかりとした理由をつけてあげる。

 ところで、僕の場合はなぜ詩を書いているんだろう。

 2つの理由がある。
 1つは、「質問があったから」
 2つ目は、「帰りたかったから」 

 ちょっとわかりづらいと思うから説明をします。

 

 1つ目の「質問があったから」。
 僕は、詩というのは疑問形の文学だと常々思っている。疑問形が似合う文学だと。ひたすら問い続ける文学。子供の頃から僕には、疑問ばかりが湧いてきた。

 なぜ世の中はこんなふうになっているのか。
 なぜ自分というものがわざわざいて、他の人とは違うのか。
 なぜ成長というものがあるのか。
 なぜ人の理解のとどかない永遠なんてものがあるのか。
 なぜ独りでいると心細くなるのか。
 なぜたかが言葉がこれほど深く刺さってくるのか。

 毎日毎日、質問ばかりが湧き出てきた。でも、そんな質問にキチンと答えてくれるものなんてない。どうしたらいいんだろうって思いながら過ごしていた。で、ある時思ったのは、もう質問をすることで、その質問を研ぎ澄ますことで、答の端っこに触れるしかないということ。間違って触れてしまうしかないと思った。

 詩は、そんな時の質問や疑問の、ちょうどいい器になる。前置きもいらない。書きたいことをそのまま直接書ける。面倒な手間がかからない。詩は質問のちょうどいい器だと思った。だからずっと詩を書いている。

 

 2つ目は「帰りたかったから」。

 さっきも言ったように、僕は子供の頃から詩を書いている。7才の時だとすると、もう60年間詩を書いている。

 でも、それは嘘。60年間なんて書いていない。だって、幾度もそこから離れたから。背を向けたから、逃げたから、蒸発したから。

 詩人って、ずっと書き続けている人と、そうでない人がいるよね。ぼくは間違いなく後者。書いたり書かなかったりしてきた。

 じゃあ、なぜ詩から逃げたんだっていうと、その理由は簡単。実生活があったから。僕は器用じゃないし、能力もそんなにないから、時々実生活に押しつぶされそうになる。精一杯に生きようとすればするほど息苦しくなる。片手間に詩を書くなんて、とんでもないことだった。

 では実生活ってなんだというと、1つは会社。

 僕は幸運にも明るくて大きな会社に勤めていたし、同僚からもまっとうな扱いを受けてきたけど、でも、仕事となるとそんなに楽なもんじゃない。容易じゃない。仕事って、だいたい自分の能力のちょっと上のものが与えられるから、失敗もするし、緊張もする。あんまり緊張して、初めてのプレゼンの前の日に、全身に蕁麻疹が出たことがあった。恥ずかしいので首が見えないような恰好で会社に行った。

 会社には、面倒な人間関係だってある。僕が管理職だった時に、10人ほどの部下を持ったことがある。そのうちの一人が会社をやめるということで、数日後、「送別会をやろうよ」とぼくが言うと、どこか妙な雰囲気になった。「松下さん、実は、送別会は終わってるんです」って言われたのはそのあと。つまりね、うっかり僕に言い忘れて送別会をやってしまったんではなくて、僕に知られないようにこっそりやってしまっていたってわけ。それまで僕は、自分がそれほど嫌われているなんて思いもしなかった。正直、すごく落ち込んだ。

 つまりね、仕事をしているといろんなことがあって、僕も一時、つらくて心療内科に行っていたこともあるけど、仕事を続けるって、どんなに優れた会社にいても容易じゃない。そう思う。

 実生活のもう一つは、私生活かな。

 子供の頃は、心優しく振る舞っていればそれですんだ。でもおとなになってくると、それだけではすまされなくなる。人と人がまじめに向き合うと、それぞれがそれぞれを思いやっていたとしても、どうしても感じ方や考え方に違いが出てくる。ちょっとした違いが、話をしているうちにすごく大きな違いになってくる。

 パートナーを持つことも、子供を育てることも、ホームドラマのようには簡単じゃない。一人でいた時に思っていた「優しさ」なんて、すごく薄っぺらなものだったんだっていうことがだんだん分かってくる。「優しい」とか「支える」なんて言葉は簡単に使っちゃいけないんだと思い知らされることになる。

 つまりね、私生活だって精一杯になってしまって、あとで詩を書こうなんて思えなくなる。

 でね、そういう会社のことや私生活のことが一段落すると、そのうちまた詩に戻ってくる。でも、なぜ戻ってくるんだろうって思うわけ。なぜわざわざ詩に戻るんだろう。

 だから僕にとっての「なぜ詩を書くか」っていう疑問は、「なぜ詩に戻ってゆくのか」という疑問と同じ。なぜ詩が、帰る場所、帰ってゆく場所なんだろう。

 つまりね、詩はいつまでも僕を待っていてくれるからなんだ。すごく失礼な態度で逃げていったのに、後ろも見ずに立ち去っていったのに、詩はずっと待っていてくれる。10年だって20年だって、実生活にあたふたしている僕のそばで、膝を抱えて待っていてくれる。

 なにも要求をしない。責めることもない。放っといてくれる、許してくれる。そんなの、ほかにない。いつだって戻る場所、帰る場所でいてくれる。詩は実生活とは別の、もう一つの人生。

 久しぶりに帰ってこられた人生だから、命をこめて書く。

 で、今日の話はおわり。なぜ詩を書くか。「質問があったから」それから「帰りたかったから」。

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