top of page
2019年5月の話
​評論のすすめ
​    
​松下育男

 

ところで
長年勤め人をやっていると
駅で通勤電車を待っているときに
「ああ
一度でいいから
会社に向かうのとは
逆方向の電車に乗ってみたい」
と思うことってあると思う

多くの人が思うことだと
思う

逆方向へ向かう電車は
やけに空いていて
日差しが車両に満ちあふれていて
座席にゆったり座って
山並みの見える駅まで揺られて行って

そんなことを夢想する


定年間際の頃にも
僕は同じようなことを考えていて
もう少しで定年になるな
定年になったら
一度会社へ行く時間に早起きして
会社に行くような気持ちで駅まで来て
ひょいと
逆方向の電車に飛び乗ってみようかなって思っていた
そうしたらずいぶん気分がいいだろうと
考えた

でも
いざ定年になったら
もちろんそんなことはしなかった

なぜかっていうと
逆方向
というものがなくなってしまったから

行くべき方向があるからこその
逆方向なのであってね

もう僕には
逆方向が失われてしまったんだなって思った

定年退職をして
なにもしなくてもかまわない
好きなときに好きな詩を
のんびり書いていればいいという立場になって

いざそうなってみると
でも
それだけではいやだなと感じた

それでは
どこにも逆方向がないと感じた

では
会社を辞めた後の自分の
逆方向の電車ってなんだろうと
思って

逆方向って
それまでの自分とは違う方向
ということで
つまりは自分を変えること
自分が変わることだと思った

流されてしまうのではなく
変わろうと抵抗すること

だから
変わりたかった

自分を変えたかった

そんなに大きく変わらなくてもいい

ほんの少し
それまでの自分とは変わりたかった

自分で動きださないと
だれも変えてなんかくれない

自分で少し変わる
変わろうとする
変わろうと動き出す
ホンの少しでいいから変われるんだと信じる
ホンの少し自分を変える

それだけを肝に銘じて
定年後の僕は生きているわけ

(詩しか書けない)

ところで
みんなの中に
詩を書いていても
自分には知らないことが多すぎるとか
知らない言葉が多すぎるとか
いろんな劣等感が入り込んできて
いつもそんなことばかり思っていて
「だから自分には詩しか書けない」
という気持ちで詩を書いている人って
いないだろうか

どうだろう

詩を書いていると
時々
自分には詩しか書けない
例えば評論なんて決して書けない
詩作品だけしか書けない
それが密かな劣等感でもある
そういう人っていないだろうか

きっといると思う


僕が今日言いたいのは
そのことでそんなに気を病む必要はないよ
ということ

内実は
それほどの違いではないのだよと
いうこと

詩しか書けないことと
評論を書いたりすることの
間には
ほんの少しの違いしかないんだよ
ということ

(詩と評論)

そもそも
詩と評論って
同じようなものなんじゃないかなって
僕は思う

つい勘違いしてしまうのは
詩は作品で
評論はそれについての解説や説明だという考え方

もちろんそういう側面もあるわけだけど
見落としてならないのは
評論もひとつの
作品であるということ

詩作品と同じように
どのような言い回しをすれば
人の心をとらえることができるか
というところに苦心する

だから同じものであるということ

つまり
読んで感動できるかどうか
という所が
評論にとっても
もっとも重要なところであるわけ

詩を書くって
生きているってなんだという謎々を解く
そういうものだって思うんだけど

同じように評論も
生きていることの謎々を解こうとしている

だから詩と変わらない
そう思う

ただ
詩作品には触れられない箇所の謎々に
評論はたまに
たどり着くことができる

つまりは
得意な場所が違うということだけど
根本は
言葉で発想するものって
どれもこれも
なにもかわらない

心の中の
うそうそとしたものを人と共有したい
ただそれだけのことなわけ

だから
詩しか書けない人が
評論は書けない
と思うのは間違っているし
仮にそうだとしても
大した問題ではない

気にすることはない

気にすることはないんだけど
どうだろう
いつまでも詩しか書けない

思っているだけではなくて
ホンの少し
自分の取り組みかたを変えてみたらどうだろう

ちょっくら評論を書いてみたらどうだろう

やる前からできないと
思わないことが大切だと思う

ホンの少し自分をそっちへ動かしてみる
逆方向へ動いてみる
ホンの少しでかまわないから

詩を作るときに
いつもいつも同じ方向に考えを進めて詩を書いていると
どうしても詩の広がりに限界ができてしまう

評論を書こうとすれば
いつもとは違った部分の創作の道や
発想のきっかけが見つかることがある

いつもとは違った頭の中の筋肉を使うし
考えのバランスもよくなる

めぐりめぐって詩を作ることにも
それは役立ってくる

だから
評論も書いてみようよということなんです

(「弧島記」を読む)

ここで一つ詩を読んでみましょう
粒来哲蔵の「弧島記」という詩の一部を載せておきました

読んでみましょうか

 *

孤島記 (抄) 粒来哲蔵


 島においては、水ほど貴重なものはない。だから水は三角形のハトロン紙に丁寧に畳まれて、島人の髷のなかに隠されている。飢渇に耐えるのがこの島の掟なのだが、子供たちのふぐりが妙に片ちんばなのも多分に蔵水の所為とも疑われる。掟では無視されているが、ひどく渇いた場合は、島そのものを握りしめ、思いきり絞りあげればよい。てのひらの川をとおって水滴がおちはじめ、舌で受けとめるとそれは火のように熱いのだ。

 島の言語は鳥声に似ている。彼らの多くは喋りはじめると口を尖がらせ片目をつぶるが、そうするうちに声はひとりでに囀りの形をとり、あとはとめどがない。夕日の中で、もはや自らは囀ることを停止することのできぬ娘たちが、ときおり羽搏たくような仕種をくりかえすが、あれは辛苦のあらわれともおもわれる。そのせいか彼女たちは、しきりと涙をこぼしているが、そうするうちにも、こんどはだみ声が彼女たちをとりまいてやかましく啼きはじめ、島はそのまま蒸し暑い夜にはいる。

  *

この詩で惹かれるのはどんなところだろう
と考えてみます

異世界を書いていて
なんだかガリバー旅行記の続きのようだなと
とらえる事もできる

でも
島の人の言語が鳥語に似ているというのくらいは
冒険小説に
ありそうだけど

島そのものを握りしめる
なんてとこまで行くと
これは詩でしか書けないだろうと
思う

仮にSF小説や
空想物語だって
こんなことを書いたら
勝手な思いつきとして葬り去られてしまう

でも詩では
きちんとその居場所があって
島を握りしめるてのひらの握力の強さまで
読者は受け止めてしまう

だから作者が書きたいのは
もちろん
空想小説なんかじゃないっていうことが
わかる

もっと書くことの根源や
魂のうめきに根ざしている

粒来さん自身も
なぜ自分はこのような詩を書くかということを
「虚像」という詩集の初めに
「自序」という形で書いている
一部を読んでみましょう

  *

「私がこの寓話の中で問いかけるものは、畢竟私の問そのもののこと、即ち私とは何かということです」

  *

こう書いているんだけど
でも
読み手はもちろん
そんなこと知ったこっちゃないわけ

目の前の作品はもう
作者の影響範囲からまぬがれている

だから粒来さんのことを
僕はその作品において尊敬しているんだけど
詩の前に解説のようなものを置くのは
あまり受け止めたくはない

あるいは
この「自序」はそれ自体が作品だと
思いたい

でもね
その作品が優れたもので
読み手がまっとうに立ち向かっていけるなら
その人がきちんと読んでいれば
それなりに作者の思っていることの中心に
近づいてゆくものなんだと思う

この作品は秀でているから
粒来さんの解説を読むまでもなく
島を握りしめるほどの情感を持て余す作者とはなにか
生きているとは何か
この気持ちの根っこには何があるか
ということを
自然に読者は感じとるわけ

繰り返すけど
読み手は
書き手の思惑なんて無視をして読む

それでも結果的に
作者の思惑に近づいていってしまうということなんです

だから
評論って
特別なものではなくて
粒来さんの詩を読む時に
その詩とともにすごした時間を
そのまま書いているだけでいい

その過ごした時間が
読み手の発想になる

簡単なことだと思う

それでね
一人の人の詩を
そのワクの中で読んでいるときには
問題は単純ですむ

でも
評論って
一人の詩人について書いているばかりではない

<詩人と詩人の関係>だったり
<時代と詩の関係>についても言及する

そんなことを書こうとすると
問題はもう少し複雑になる

(「戦後詩史論」)

でね
そういうところまで書いてみようと思うなら
ともかくも一冊
きちんとした詩論を読んでみることを勧めたい

たとえば
吉本隆明の「戦後詩史論」っていうのがあるでしょ

これは昔の本だけど
一度は目を通しておいたほうがいいと思う

難しいと感じても
分るところだけを拾って読めばいいし
引用されている詩を味わうだけでもかまわない

読んで
一つ一つの文章を完璧に理解しようなんて
思わなくていい

まさに
目を通すだけでいい

一度目を通すと
いろんなことを考える

この本は
詩人の関係性や詩の状況が
きちんと整理されている

いろんな詩を書いている人を机の上にならべて
区分け整理を
しっかりしている

確かにそうなんだけど

だれもがこんなにしっかりとまとまったものを
書けるというわけのものではないんだけど

だから
ここで書かれていること
つまり何人かの戦中戦後の詩人を幾つかのグループに分けて
それぞれの特徴と
時代との関係性を語っていることは
学びとしては
いったんきちんと受け取ってもいいと思う

戦前 戦中 戦後の詩人の流れが
明らかにされている

ざっと見てみると

「不定職インテリ」としての
山之口貘や草野心平

「モダニズム派」としての
西脇順三郎、北園克衛、

「四季派」としての
三好達治、立原道造

さらにその後
戦争をくぐり抜けた後の
「荒地」と「列島」についての
詩人が語られていて

それから吉岡実、清岡卓行
というところまでカバーしている

まさに
今の日本の現代詩の基を形作った骨格が
ほぼカバーされている詩論なのであって
そういう意味で
すごくまとまっていて
一回は読んでいて損はないと思う

もちろん
こういうのって
書かれていることすべてを鵜呑みにする必要はない

でも
詩作品に向かった時の
読みの手さばきと
展開する理屈の美しさを
味わえばいい

すごく参考になる

論の進め方とかまとめかたの
切れ味の秀でた
ひとつの作品として読んでかまわない

吉本隆明だって
詩を読むという行為の前では
僕らと
なんら変わらない

いろんな詩を読んでいると
どうしても
この詩は誰それのあの詩に似ているな
とか
この時代のこのできごとに結びついているんだろうな
とか
感じることがある

その感じって
何かと何かの関係が
かちっと結びついたり
はめ込まれたときの
気持ちの良さを感じることがある

それって
詩を書いているときの
最適な言葉を探し当てた時の感じ方と
同じ

だから
評論も
作者の発想から生まれてくるものなんだと思う

そういう意味で
詩を書ける人には
同じ方法で評論が書けると
僕は思う

評論も
読んだり理解するだけのものではなくて
感じるもの

詩と同じように
感じるものだから

(詩を書くことは)

生きているひとつひとつのできごとに
違和を感じて
詩を書く
という一連の行為の中には
詩をどのように書いたら有効か
という考えがおのずと入ってるわけで

その有効にする手だてそのものが
詩について考え
他の人の詩との距離を測り
時代のさまざまな事象や声の中で
おこなわれているんだということ

つまり
詩を書いていれば
詩を概観して
整理して
まとめあげるという行為のようなものを
おのずからしている
ということでもあるんだ

色んな本を読んで知識を蓄えていなくても
詩を書くときにちょっと考えたことや
人の詩を読んだときにちょっと感じたこと
それこそが
自分にとっての
自分だけの評論になりうる
って僕は思う

ちょっと感じたことを
軽視しない

そこにこそ
独自性があり
評論があり
詩がある

一篇の詩を生み出すように
他の人には思いもつかない発想から
評論を書いてみよう
とすること

それが大事だと思う

今日の話をまとめると

詩しか書けないと感じていて
そこに留まっている人は
ホンの少し変わってみようよ
というのが
僕の今日のメッセージ

変わるためには
自分から動かなければ変われないし

この「buoyの会」には
詩作品をもってくるだけではなくて
たまには評論を提出してくれてもかまわない

これは僕の提案です
「buoyの会」には詩作品だけではなくて
例えば
何か1冊詩集を読んで感じるところがあったら
今月は詩ではなくて
その詩集について書いた文章を出そう
というのでもかまわない

一人の詩人についての考えを書いた散文を提出してもかまいません

いきなり立派な文章が書けるわけのものではなく
だから
こういったところで練習するのも
ひとつの方法だと思う

感想って
文章にしてみないと
ああこんな感じだなと
浅いところで終わってしまうけれども
それをいったん文章にすると
こんなことを自分は感じていたんだっていうことが
わかってくる

ともかくやってみようよ
ということです

どんな文章でも丁寧に読んで
僕はできる限りのアドバイスをするから

bottom of page