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2019年6月の話(池袋「こじんまりとした詩の教室」)
 
​ただここにあるもの
​    
​松下育男

 

今月の初めに前橋に行ってきました

 

座談会があって

それを観に行ってきました

 

伊藤比呂美さんの話が聴けるというので

朝早くから起きて

横浜から電車に乗った

 

横浜から前橋って

距離にすればずいぶん遠いけど

今って

いろんな路線が繋がっているから

乗り換えは一度きりで行ける

高崎までは一本なの

 

だから高崎までの長い時間を座席に座って

本を読んだり

うつらうつらしていたんだけど

途中で

大宮駅だったかな

電車が突然動かなくなってしまった

 

アナウンスがあって

桶川と鴻巣の間で人身事故があったっていうことでした

 

それで

事故の処理に手間取っていて

なかなか電車が動かない

 

結局一時間くらい止まっていて

また動き出した

 

家を早く出ていたから

座談会にはなんとか間に合ったんだけど

前橋駅で待ち合わせをしていた人とは

残念ながら会えなかった

 

事故処理に手間取っていたのは

飛び込み自殺だったからじゃないかと思う

 

時々

止まっている電車の車内アナウンスがあって

移動がどうとか

警察の検証がどうとか

後始末に手間取っているとか

言っていた

 

僕が電車の中でうつらうつらしている時に

桶川辺りに

人がひとり

死のうと決めて

死んでしまおうと決心して

そのために足を一歩一歩動かして

重い心を携えて

線路に向かっていたんだなって

その時思ったんです

 

僕は学者ではないから

勝手に考えたことしか言えないけど

人が

自ら死んで行くって

どういうことなんだろうって

どうしても考えてしまう

 

考えはそっちに向かってしまう

 

(ファーブル)

 

そんなときに

きまって思い出す本が

あります

 

『ファーブル昆虫記』なんですけど

その中に

どんな名の昆虫だったか忘れてしまったけど

巣作りに夢中になっていて

巣作りというのは

言うまでもなく

自分がそこに卵を産んで

生まれた子どもを外敵から守るための場所を作るっていうことね

 

その

巣作りに夢中になっている最中に

背後から

自分よりも大きな昆虫がやってきて

自分を襲ってくることがある

 

自然界だから

そんなこともある

 

襲ってきたやつが

自分にかみついて

体を食べ始めてしまうこともある

 

普通ね

自分が襲われて

ましてや食べられてしまうような事態になったら

まずはそこを逃れて

またあとで巣作りをすればいいと

人間だったら思う

 

でも

その昆虫はそうしない

 

自分が食べられながら

ひどく痛い思いをしながら

生命を削られながら

まだ巣作りをやっている

 

息絶えるまで

巣作りに夢中になっている

 

この話を読んだときにね

僕は切なくなってしまったんだけど

たしかにいろんなことを

考えさせられた

 

本能ってなんだろう

とかね

 

では

人間にとっての本能ってなんだろうとかね

 

片や

自ら死を選ぶ人間がいて

 

もう一方には

自分が食べられても

子孫のために動きをやめない昆虫がいる

 

どっちが偉いとか

こちらの行為は尊くて

こちらの行為は蔑むべきだなんて

そんなことを言っているわけではないんです

 

そういうふうにできているんだなって

思う

 

ただそう思う

 

(二種類のもの)

 

ところで

この世の中にあるもの

ここにあるものっていうのは

二種類にわけられる

 

ひとつは

自分がなぜここにいるのかっていうことを

考えてしまうもの

 

もうひとつは

そんなことは考えずに

ただ

ここにあるもの

 

ただここにあるものって

例えば生き物ではないもの

 

雲や

空や

テーブルや

なんでもいい

そこらにある石もそうだし

道も

水も

炎も

みんなここにあるけど

自分がなぜここにあるかなんて

考えてはいない

 

そういうの

幸せだろうな

って

感じることがあるけど

実は

そんなことはないわけね

 

ただそこにあるだけなんだから

幸せとか不幸せとか

そういうことの

外側にある

 

幸せとか不幸せとかで計れないものを

うらやむことはできない

 

(人は)

 

でも

人間はそうではない

 

生きていると

なぜ自分は生きているんだろうと考えてしまう

 

というか

生きていることの意味を考えること

そのことが

生きているということなのだろうと思うんです

 

実に妙な話だと思う

 

だって

生きるとは何か

ということを

考えるために生きるだなんて

なんかどうどう巡りをしているみたいです

 

人間って

堂々巡りをするために

生まれてきたんだなと思う

 

話があっちこっち行って申し訳ないけど

では

さっき話した昆虫は

自分がなぜ生きているかを考えているだろうか

 

自分の体が滅ぼうとしているのに

そんなに痛い目にあってまでも

なぜ巣作りをしているのだろうか

そういうことを考えるだろうか

 

たぶん考えないと思う

本能だから

 

本能って

「自分がなぜ生きているのか」という問いに対する

無言の答えであるわけで

そういう意味でまぎれがない

 

石が

なんにも考えないでもここにいられるように

あの昆虫も

なんにも考えないでも

何をすべきかがわかっている

 

人は悲しいかな

そうではない

 

どうして生きているんだろう

っていう気持ちは

明日も生きていけるっていう気持ちと

明日も生きなきゃならないという気持ちが

かわりばんこに来る

果てしのないくりかえしでもある

 

そういう繰り返しの波に負けて

桶川付近で一人

その日

自ら命を絶った人がいたんだなって

僕は電車の中で考えていた

 

もちろんその人のことを

僕はなにも知らないわけで

勝手に考えていただけのことだけど

 

(その日の話)

 

その日に聴きに行こうとしていた話は

もちろん詩の話です

 

詩を書くって

まさに

自分はなぜここにいるんだろう

なぜ生まれてきたのだろう

自分ってなんだろう

自分が出来ることは何があるだろう

っていう問いに対する答えを

ひたすら探してゆく行為でもある

 

だから

人である限りは

詩人でなくても

だれしもが

詩をどこかに

書き続けているっていうことでもある

 

詩なんか興味がない

詩なんか読んだこともないと言っている人も

生きている限り

どうして

どうして

という問いの先に

それぞれの命の詩を

書いているんだと思う

 

人である限り

実はみんなが詩を

書いている

 

そういうことなんだと思う

 

生きているっていうことはいったいなんなんだろう

そういう詩を

頭の中でずっと書いている

 

そう思うわけ

 

詩の中心にあるものって

そういうものだと思う

 

どんなふうに

詩の見栄えをよくするかっていうのも

意味がないとは言わないけど

詩作の

もっと奥の中心には

本来

きまじめで

かけがえがなくて

のがれることの出来ない

生きていることそのものの意味を

真摯に掬い取ろうとする意志が

しっかりとある

 

だから詩は

さてこれから書くぞと

わざわざ身構えて書くものではないと

僕は思う

 

生きているそのことを

あるがままに書くことが

最も尊い詩になるんだと思う

 

詩を書く人も

詩を書かない人も

実は詩を書いている

 

そう思う

 

(本当に読みたい本)

 

時々

僕は

せっかくの命を与えられているのに

それを無駄にしてはいないだろうかと

考えることがある

 

本当に読みたい本を読んでいるだろうか

本当に聴きたい音楽を聴いているだろうか

って

考えてしまうことがある

 

見栄をはって生きていないだろうか

立派に見えるように振る舞ってはいないだろうか

 

社会に出れば

人の目があるし

あるいは

自分はこう見られたいという気持ちもあるし

今の自分ではなくて

もっとなんとかなりたいという希望もあるから

無理に背伸びをした難しい本を読んだり

カッコつけた音楽を聴いたりしていないだろうか

 

この世界に

たった一人で生きているわけではないから

そうすることは

仕方がないとは思う

 

でも

たまにでいいから

本当に自分が読みたいもの

聴きたいものに

身の丈を合わせて

素直に費やす時間があってもいい

 

くだらないものでも

幼稚なものでも

何も生み出さないだろうと思われるものでも

決して美しくはないものでも

人に見られたくないものでも

それが真に

自分が読みたいもの

聴きたいものであるなら

しっかりと手につかんでいてかまわない

 

それが

自分を生きるということだから

 

誰かと比べるために

生まれてきたのではないから

 

自分に合ったものに身を添わせる

正直になる

って

大切なことだし

たまにそうしていないと

自分のあり場所が見えなくなってくる

 

(詩を書くとき)

 

詩を書くときも

同じこと

 

背伸びをしたり

カッコつけた詩を書こうとしない

 

裸で生まれてきた

そのままの心が惹かれるものに

こだわっていていい

 

赤ん坊を見ていると

買い与えた高価なおもちゃでなくても

むしろ

単なるヒモ一本で

ずっと楽しく遊んでいる

 

手にからませたり

空に放り投げたり

実に楽しそうに遊んでいる

 

自分にとってはあのヒモが

詩を書く

ということなんだと思う

 

今の自分が書けるものを

そのまま書く

そういう所にこだわっていれば

詩に血液が流れてくる

 

どこかの誰かから借りてきたような

りっぱな詩を作っても

仕方がないと思うわけ

 

自分を偉く見せたいと思って書いた詩よりも

自分はこんなものでしかない

ということに目を据えた詩のほうが

よっぽど人に伝わる

 

裸の自分が書いた詩は

裸の心をもっている人が

しっかり読んでくれる

 

詩の読者って

そういうものだと思う

 

詩の読者だって

社会に出れば

いやでもカッコつけたり

背伸びをしたりして

つらい毎日を過ごしているのだから

家に帰って詩を読む時ぐらい

背伸びをしていた踵(かかと)を地面に着けたい

そう思っているに違いない

 

(昆虫のように)

 

人は昆虫のように強靭な

揺るぎのない本能に突き動かされることは

ない

 

ほとんどない

 

でも

その代わりに

しっかりと自分を見つめることができる

それを文字にすることができる

 

それがまさに

僕らの本能なのだと思う

 

書かずにいられない

という思いが募ることこそが

僕らの本能なんだと思う

 

背中から食べられながらも

将来につなげる行為をする昆虫のように

どんなにつらいことがあっても

決して死のうなんて思わずに

一篇の詩を

本能のようにして書いていける

そんな詩人になりたいと思う

 

自分の命って

自分のものではない

 

日々の悩みに背中を食いちぎられながらも

詩に駆り立てられてゆく本能

 

悩みとか

病いとか

もちろんいろんなことがあって

一人ずつができているわけで

僕がここで能天気なことを言ったところで

なんにもならないわけだけれど

 

それでも生きていることの大もとに目を据えて

思いの限りを書き尽くすことに

生命を費やしたい

 

そういう本能を持って

昆虫のような表情をして

ひたすら書き続けたい

 

あるいは

 

命のあるなしの

外で

ただ

ここにあるものとして

どうでもいいモノのひとつとして

生まれてきた証を

ひたすら書き続ける詩人で

ありたい

 

詩を書くって

生きていることの中心にある行為なんだと

思う

 

そのことを時々思い出そうよ

という話です

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