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2019年3月の話
 
​わくわくするような詩
​    
​松下育男

 

今日の話は「わくわくするような詩」という話です。

 

僕も勤めをやめてもうすぐ2年になるわけです。会社をやめた当初はウィークデイの昼間に外を歩くのはすごく恥ずかしくて、自分の居場所がなかった。

 

それでも2年もたつとだんだん慣れてくる。勤めに行っていない自分、つまりは社会の生産機構から外れた余計な生き物としての自分に慣れてくる。どこかの会社の、部長だったりマネジャーだったりという自分よりも、肩書きも地位もなにもない方が自分らしく感じられてくる。

 

いろんなものを一枚ずつめくっていったら、ここにささやかな自分の芯があったんだって気づく。その芯が歩いているんだって感じがする。

 

毎日が休みで、どこに行くのも自由なんだけど最近は無理をして出かけない。朝起きて細々したことをすましたらすぐに自分のための時間ができる。いつもそれなりに書くべき原稿があってそれに向けておもむろに向かう。

 

娘が演奏家なので、家にはやまほどCDがあります。ほとんどはクラシックなんだけど、それを眺めていたら唐突に、そういえば僕はもうすぐ寿命をむかえるなと思った。

 

それで家にはこれだけ沢山のCDが並んでいるけど、CDって眺めるものじゃないよなと思って、でもそのほぼすべてをぼくは聴いたことがないなとある時気づいた。

 

なんていうか、このまま自分の家にあるCDを聴かずに死んでしまうのはもったいないなと思った。

 

自分にとってもったいないことはなにか、やり残したくないことは何かってこの年になると考えるようになる。

 

だから最近は毎朝一枚ずつ聴いている。聴いているというよりも音楽を流しながら原稿を書いている。出かけてはいないんだけど、音楽喫茶で原稿を書いているのと同じにしている。

 

(ろくでもない自分)

 

で、朝からクラシック音楽を聴いてコーヒーを脇に置いて原稿を書いているっていう話をしたんですけど、そういうのって、なんていうか、かっこつけた話でしょ。

 

自分はこんなことをしているよって言っているけど、嘘は言っていないんだけど、でもホントのことも言っていない。

 

つまりそういうことを人に話すって、単に見られかたを気にしているだけで、物事の伝達ということで考えるとなにものでもないことなわけね。自分の何を語っているわけでもない。

 

じゃあ本当の自分ってなにかっていうと「ろくでもない自分」なわけ。ろくでもない自分を話すことがたぶん本当のことに近づく。

 

表現って、詩を書くって、かっこつけた自分を書くことじゃないでしょ。ろくでもない自分をさらすことでしかない。

 

ろくでもないからろくなことしか考えない。そのろくな事しか考えないろくでもない自分のことを書くのが詩なんじゃないのと考える。

 

ろくでもないのにカッコつけるみっともなさ。そのみっともない自分のみっともなさを大事にしようよということなんです。

 

みっともないから、あるいはろくでもないからこそ、自分というものは考える価値があるし見つめる価値がある。

 

ろくでもないから自分というものは面白いのだし、めぐりめぐって生きていることに興味が湧いてくる自分なりの深みを求めることができる。そう思う。

すぐれた詩っていうのはありふれていない詩なのね。

 

ありふれていないというのは一般的なものとは違うということなの。

 

一般的な詩、つまりだれでもが感じることをだれでもが使う日本語で書いた詩。

そういう詩は、書いた本人がそれでかまわないと思うんならそれでいいんだけど、いざ人に見せるとなるとつまらない詩とかありふれた詩というものになって、ゆるい輪ゴムをかけてひと括りにされてしまう。

 

ではありふれていない詩というのはなにかっていうと、一線を超えた詩のことなわけ。

 

詩を書くときにはここまでは書くけど、これ以上深入りすると
えげつなくなる
露出が多くなる
自分の知性が疑われる
品性も疑われる
かっこつかない
みっともない
だめな自分がさらけ出される
恥ずかしい
ろくでもないことを考えていることがバレル。

 

こういう一線まで来るとやばいと感じて、大抵の人は引き返してまたカッコつけて詩を書きはじめる。

 

見栄が顔を出してくる。朝はクラシックを聴きながら原稿を書いていますなんて言い始める。

 

でもすぐれた詩を書く人っていうのは、見栄なんかはっている暇はない。腹の底で覚悟ができている。

 

一線を超えてしまっても書き続けることができる、あるいはその一線がどこにあるのかを感じることができる。

 

普通の人が書かないことまで書いてしまう。

 

そうするとね、すぐれた詩になる可能性が出てくる。

 

可能性がでてくるということで、一線を越えれば必ずすぐれた詩になるというほど世の中甘くはないわけ。

 

それから、注意しなければいけないのは、ただ露悪的になんでも書けばいいって言っているわけじゃないのね。

 

人が書かない微妙なポイントを探し当てて、そのちょっとしたかけらを書くことによって表現がより鮮やかさを増すわけ。

 

例えば長嶋南子さんの詩を読んでみるとわかる。

 

たしかに年をとったり、職を失ったり、たったひとりだったり、家族はどうだとか、亡くなった亭主はどうだとか、むすこはどうだとか、犬はどうだとか、書いてある内容をおおまかに説明すると人とたいして違わない。一緒なの。

 

でも個々の詩の1行1行を見てみるとあきらかに一線を越している。みっともないということをつきぬけている。

 

覚悟を決めて詩を書こうとするなら、カッコつけたこと書いてるんじゃだめだよということ。

 

男女の間もそうでしょ。「あなたが好きです」なんて清まして言っているうちはふられるわけ。よっぽどいい男なら別だけどね、たいていはそんなの相手に全然通じない。通じるわけがない。

 

普通の言葉だから
ただの日本語だから
言葉に血が通っていないから。

覚悟ができていないからだめなの。
カッコつけているうちはだめなの。

 

この人しかいないと感じたら、もっとせっぱ詰まって自分はこんなにどうしようもない人間だけど、というところまでさらけだして、それでも一度きりの人生をあなたとやっていきたいんだ、あなたとならお互いを尊重しあってやってゆける、あなたのためなら何でもするから一緒に生きていってもらえないかと、はいつくばって、心底からぎりぎり訴えないと人を愛する気持ちなんて伝わらない。

 

詩も同じなの。

 

人生を賭して詩を書くつもりなら自分の一番弱いところをさらけ出す覚悟が必要。その覚悟が人の胸をうつ。そう思う。

 

(ねたむ自分)

 

で、話の初めのみっともない自分というところにもどりたいと思うんだけど、他にもみっともない自分ってある。

 

どういうみっともなさかっていうと詩を読んでいる時のみっともなさ。

 

人の詩集を読んですることっていうのは普通つまらないものはがっくりして読み捨てて、いいものはすごいなと思って、感じて、評価して人に勧めてと、そんなところだと思うんだけど、それって全てが本当ではない。

 

本当のところは、すぐれた詩集に出会うとすごいな、いいなと思うそばにちょっとした嫉妬がわいてくる。少し頭にも来る。

 

なんで自分でない人がこんなにすごい詩を書いたんだって惨めな八つ当たりをしたくなる。そういうみっともない自分を少し抱えつつ詩を読んでいるわけね。

これって小説やなんかと違うのは詩って読む人はほとんど書く人でしょ。だから読むという行為が単純じゃない。

 

つまりね詩を読むという行為は単に鑑賞しているだけではなくて、読みながら学んでもいる、戦ってもいる、うらやましく思ったりもする。どうしてこんなにすごい詩を自分が書かなかったのだろうと苦しみもする。

 

そういうみっともない自分が常にいる。

 

でね、そういった人をうらやましがったりねたましく思ったりというのは必ずしも悪いことじゃない。

 

人を尊敬するっていうのはその人になれない自分を潔く認めるっていうことでしょ。つまり嫉妬して読むすぐれた人の詩ほど自分を奮い立たせてくれるものはないし勉強にもなる。

 

意地の悪い自分だけどその奥では謙虚にならざるをえない。

 

みっともない自分を受け入れて、認めて、それでそういうところを自分のためになる方向へもって行けるように道筋をつくってあげるというのが大事。

 

うらやましいと思っているだけで一生をだらしなく終えるのか、自分もそういうのが少しでも書けるようになるために真摯に作品を受けとめて学ぼうとするのか、そこが分かれ道だと思う。

 

みっともない自分を知るということは、みっともなくない自分へ動き出すということでもあると思う。

 

自分をコントロールする。コントロールするためにはおのれ自身を知る。

 

おのれ自身を知るために詩を書いているのだと思う。

 

(おのれを知る)

 

おのれ自身を知るということで思い出す1冊の本がある。

 

川又千明の『幻詩狩り』という本。

 

どこでも手に入る本だから知っている人もいると思うけど、SF小説で、軽い読み物。

 

僕はこういうの滅多に読まなくて、そんな時間があったらまだ読めていない詩集を読んでいたいと思うんだけど、この小説は言葉の力、言葉の魅力について書いてあるというような広告が出ていて、それに惹きつけられて昔買って読んだ。

内容を知らない人もいるだろうから簡単に説明をします。

 

第2次世界大戦の頃のアンドレ・ブルトンが前半の主人公。アンドレ・ブルトンってご存知のようにシュールレアリズムの親玉。

 

戦争で、身の安全が危うくなってきてブルトンがアメリカに逃げていた頃のことが書いてある。

 

ある中国人の青年が詩を1篇持ってきてブルトンに見せる。その詩があまりにすごいんでブルトンは驚愕するというもの。

 

何がすごいって自分の思考がその詩に支配されてしまう。その詩が書いてあることに頭が圧倒されてしまう。言葉ってこんなことが出来るのかと思うほど精神に食い込んでくる。

 

それで言葉というものが持つ影響力とはなにかとブルトンは考えるわけ。つまりこれほど人の考えを揺すぶる言葉というものはもはや武器ではないか。

 

戦争をしている相手の国にその人の考えに食い込むような言葉を読ませて、たとえば戦意を失わせることにも使えるし、投降したいと思わせることもできる。まぎれもなく武器のひとつになるのではないか。

 

言葉は武器、あるいは麻薬のようなもの。読んだ人をだめにすることもできる。

ブルトンはこの詩にひどく打たれるわけね。

 

言葉の力とは何かっていうことがこの小説には書かれている。

 

ただ、ぼくがさっき話をした「自分のみっともなさを知る。おのれ自身を知る」っていうことを考えていてこの小説を思い出したのはこの1篇の詩によってではない。

 

この中国の青年が書いた2作目の詩を思い出したから、この話に繋がったんです。2作目は「鏡」っていう詩。

 

「鏡」っていう題で詩を書くことは特に珍しいことではない。僕も書いたことがある。

 

でもこの青年が書いた「鏡」という詩は、鏡について書いた詩ではなくて鏡そのものになった詩なの。

 

つまり詩が鏡だから読んだ人が映っている。見た目が映っているだけじゃなくって自分の全てが映っている。内面のきたないところ、それこそみっともないところ、嫉妬心、そんなこんな。

 

この詩を読んだ人はいやでも自分の全てが見えてしまう。隅々のカスまでさらけ出されてしまう。だからとても恐ろしい詩なわけ。

 

できたら読みたくないという詩。鏡そのものの詩。できたら読みたくない詩っていうことは、それだけ強く惹きつけられる詩とも言える。

 

で、この青年は結局生涯に3篇の詩を書くんだけど、さきほど言ったように、1篇目は人を導いてしまう詩、2篇目は鏡の詩。

 

今日の話とは直接には関係ないんだけどここまで話したからついでに3篇目の詩はどういうのかというと3篇目は「時間」の詩なの。

 

時間の何たるかがわかってしまう詩。青年はこの三つ目の詩を書き上げたらホントは読んでもらうために翌日ブルトンに会う約束をしていた。でもその約束を守れなかった。なぜなら書き上げたところで亡くなってしまったから。

 

時間とは何かがわかるということは、今生きているということの意味も明確になってしまって、まざまざと見えてしまって、つまりは今と今でないときとの差異も分ってしまって、それで時間が明確に見えている世界で生きてなんていられなくなって、時々刻々、時間に刺し貫かれているようなもので、そのまま時間の果てでもある「死ぬ」ことに繋がってゆくわけ。

 

この「時間」というものも考えてみれば詩の題材としてはよく扱われる。

 

昔のことをノスタルジックに書くのも時間が題材だし、幼少期の想い出を書くのも時間を書いているといってもいいかもしれない。

 

で、この小説に出てくる3つの詩はそれぞれが今の詩が目指しているものと被さってくるわけね。

 

1作目は人の気持ちを動かす詩とはなにか、
2作目は自分をさらけ出す詩とはなにか、
3作目は過去に思いを馳せる詩とはなにか。

 

でもね、ここで出てくる中国の青年が書いている詩と、今まさに自分が書いている詩は同じだろうかと考えると、やっぱり違う。

 

どこが違うかというと、詩に託している思いの量が違う。熱量が違う。

 

この小説に書かれているほどの言葉の影響力を今の僕らは信じていない。

             

詩を書くことによって、もっとささやかな気持ちの揺れを読者に与えたいとはしているけれども、読者の思いをぐらぐらさせるほどの詩を書こうとはしていない。

 

僕が子供の時に考えていた詩はもっとすごいものだった。読んだら涙がとめどなく出てくる詩、しばらく椅子から立ち上がれなくなる詩、そういうのを書きたいと思った

 

それが大人になるに従って、いつの間にか詩に求めるものが小さくなってしまった。

 

小さく求めることが悪いとは言わないんだけど、それだけではないのかなって。

 

それだけではないことを思い出したいと思うわけ。詩に期待したいと思うわけ。

 

(言葉の力)

 

詩にできるのはこれくらいじゃないかなって予め限界をつくってはいないだろうか。

 

ほどほどの詩でいいやと思っていないだろうか。

 

詩ってもっとできることがあるんじゃないかと思う。もっと人を突き動かすものがあるんじゃないか。

 

わくわくするものが欲しい。

 

例えば詩集が机の上にあったら、読む前から楽しみで仕方がなくなるような、震える気持ちが湧いてくるような感じ。そういうのがもっとあってもいい。

 

(長編詩 物語詩)

 

で、そのわくわくするような詩ってなんなのっていうことになるんだけど、いろんなのが考えられるけど今日は一つの例を示したい。

 

ひとつの考え方だけどね、

 

短くて切れ味の鋭い、あるいは断面の光った詩もそれはそれでいいんだけど、それだけではなくしっかりした構成を持った、その構成そのものにうっとりとするような長編詩がもっと日本の詩にはあってもいいと思う。

 

一つの例は、読んだことのある人もいると思うんだけど稲川方人さんの『アミとわたし』。

 

「ランドセラ王」という人がいて、つまりは王様なんだけどその王様の旅行記で『ランドセラ王旅行記』というものがあって、それをわたしとアミが読んでゆくという連作長編詩。

 

だから本の外と内と、二重に詩が進んでいて、その関係が読むということ、書くということの意味を考えさせてくれる。

 

とは言うものの、この詩集の中で実はアミとわたしはそれほど『ランドセラ王旅行記』を読んでいない。

 

むしろ、読んでいない時間に何を考えどこへ行ったかが奔放に描かれていてその読んでいないという変な日常の旅行記を読者は読まされることになる。

 

さらに稲川さんはここで一線を越えているような書きかたをもしている。粗野ななれなれしい語り言葉を多用している。「おたんこなす」とかという言葉が突然出てくる。それがすごく新鮮に受け止められる。

 

そういうのってどこか昔の、それこそシュールレアリズムの頃の「ユビュ王」という戯曲があったけど、あの中の意図的に乱暴に発した言葉遣いを思い出させる。

 

で話をもどすとこの稲川さんの詩集はそういった語り口調の愉快さとともに、この連作詩全体が構築している世界をも読み進めることの出来るそういう構図になっている。

 

だから惹かれる。だからわくわくする。一つ読んで見ます。

 

 

アミとわたし (抄録)   稲川方人

 

アミ、
わたしは言おうと思うのだ
ひとを恋するものにも
にせのこころがあって
大きな建物の避雷針に降る
雨を見上げながら
ひとを恋するものたちの
にせのこころが濡れている午後
アミ、誰だって
そんなふうに濡れて
十や二十のにせのこころに
安心するんだってば
ときどき自分の横顔を見るために
夢のなかで
人は横たわるし
死ぬにしても
眠るにしても
人は横たわって
アミ、どうせ
あまり変わりはしない
夢を見るんだってば

 

 

稲川さんの詩を読んでいると、言葉のひとつひとつが途方に暮れているなと感じてしまう。むき出しにされて言葉の何たるかを奪われてしまっている。だからすごく寂しい気持ちになる。

 

どのように私は使われるのでしょうと、あらゆる言葉が上目遣いに人を待っている。そんな感じがする。了解事項が何もない世界でものを言おうとしている。それが稲川さんの詩なのだなと思うわけです。

 

(柴田さんの長編詩)

 

それからもうひとつはまさにこの教室で今書かれ続けている長編詩です。柴田千晶さんの連作詩。

 

自宅の床に親を埋めたまま暮らしている女性のことを書いている。

 

こないだNHKのドキュメンタリーで「在宅死」のことをやっていました。病院で亡くなるのとは違って自宅で死んだあとって、どこか日常の時間がそのまま連続しているわけで、死んだ人がそこにいるだけであとは昨日と何も変わっていない。

 

本来ならそれからお医者さんに証明書を書いてもらって、
葬儀屋へ電話して
親戚に連絡して
アドレス帳から友人を探して連絡して
死亡通知をお役所に出して
戒名をつけてもらって
お葬式をやって
送る言葉を人前で話して
焼いて
納骨をして
とかなんとか
いろんなことをやっていかなきゃならないわけだけど。

 

たとえば自宅のいつものかわり映えのしない時間の中で、身内の死をひとりで抱えた人にとっては、そのことを黙っているだけで柴田さんのこの詩の状況に陥ることになる。

 

そのハードルって思っているほど高くないのかなと感じてしまう。

 

むしろ、いざ立ち上がって葬儀屋の電話番号を調べたり、そこへ電話して今まで口にしたこともないような会話を話したりということよりも、だれにも言わないでそのままにしてしまうということのほうがずっと自然に感じてしまう。

つまり何かをやったからではなくて何もやらないでいることが大変な事態を引き起こすということ。

 

何かをやったから犯罪になるわけではなくて
何かをやらなかったから犯罪になる。

 

その大変な事態ということが社会的には大変でも、個人としてはただ誰にも言っていないというだけで大したことではないと、とりようによってはとれてしまう。それって充分にありうるなと思うわけ。もちろんいけないことであるんだけどね。

 

そういう犯すつもりもなかったのに犯してしまった犯罪に気持ちが追い立てられるように生きている女性のことが克明にこの詩では描かれている。

 

手元にこの連作詩の登場人物一覧を載せておいたので見てください。

 

 

◆連作の登場人物 
あたし(物流倉庫や老人介護施設などで働いている) 
母親(ミイラ化してあたしの家の床下に安置されている) 
赤居洋二(西川燃料店の作業員) 
美也子(ニュータウン白鷺が丘の人妻) 
福島映子(逃走中の謎の女) 
相川のおばさん(母親が働いていた自動車部品工場の奥さん) 
ビニールおばさん(震災の後、どこからか流れついた老女の浮浪者) 
大家(美也子と映子が暮らしていたアパートの大家) 
神野(アパートの住人) 
ミツコさん(喜楽苑の入居者) 
マサミさん(ミツコさんの娘) 
おやじさん(西川燃料店の経営者) 
多江さん(その未亡人) 
千香(多江の娘) 

 

 

この登場人物が連作詩のあちこちに出てきてそれから生きている人と死んでいる人が交差して触れ合って複雑に絡み合う。

 

時間軸もしっかりと入っていて、肉親とは何か、生きるとは何かが迫力を持った詩行とともに書かれ続けている。

 

それぞれの詩の言葉の切れ味が担保されていて、さらに個々の詩が大きな建築物の一部であるような詩。

 

読者は個々の詩の完成度を堪能しながら同時に壮大な建築物を見上げるまなざしを持てる。そういうことができる詩になっている。

 

この詩がいつか完成したらすごい詩集になるだろうと思う。読む前からわくわくさせてくれる詩集になるだろうと思う。

 

僕たちはこの教室で、まさにその詩とともに時間を過ごすことが出来ているわけで、すごく幸せだと思うわけ。

 

長いので初めのところだけを読んでみます。

 

残りはあとで読んでみてください。先月はscene15だったんだけど、この作品は昨年の8月にbuoyの会にもってきたscene12です。とにかくすごいです。

 

 

ミツコさん scene12

 

パタカラ パタカラ パタカラパタカラパタカラ……肉を叩く音がしていた。302号室のミツコさんの部屋から肉を叩くような音がしていた。てのひらでびしっびしっとたぶん太もものあたりをだれかが叩いている。今、カーテンをふいに開けたらわかるだろう。だれが何をしていたのか。喜楽苑302号室の便の臭いが充満する部屋でミツコさんはだれかに叩かれている。そう思っていたのにあたしはカーテンを開けることができなかった。

 

パタカラ パタカラ パタカラパタカラパタカラ……
ミツコさんを車椅子に乗せて
海沿いの道をゆく

 

かあさんを叩いたことはなかったけれど、あの介護生活があと十年も続いていたらあたしはかあさんを怒鳴ったり叩いたりしてしまったかもしれない。そんなことにならないうちにかあさんはあっけなく死んでしまった。どろどろに疲れて、うたた寝しているうちにあたしのとなりでかあさんは冷たくなっていた。どうしてかあさんをそのままにしてしまったのか……だってもうかあさんはかちかちだったし救急車を呼んでもだめだって思ったし警察とか呼ぶきもちになれなかったしとなりの奥さんとか従姉とかに電話してどうしたらいいか聞いてみればよかったのかもしれないけど、あたし、かあさんが死んだって思いたくなかったんだと思う。そのままずぅっと。今日までずっと。

 

パタカラ パタカラ パタカラパタカラパタカラ……ミツコさんとあたしはどこへ行ったらいいのだろう。あたしがミツコさんを連れ出したこときっともうばれている。喜楽苑には戻れない。あたしの家にも帰れない。だってかあさんが怒るから。(あたしの身代わりを連れてきて、あんたはあたしを忘れるつもりだね。)台所の床下で家魂になったかあさんはきっとあたしをなじるだろう。

(マサミさん わたしがなにもできなくてごめんなさい。
(マサミさん わたしはどうすればよかったの。

 

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ミツコさんはずっと謝っている。マサミさんはお嫁さんかとずっと思っていたけど、娘さんの名前だってだれかから聞いて、あの皇后さまに似たやさしい顔の女のひとがそうなのかって、あたし少しショックだった。あんなきれいな顔をしてミツコさんを叩いていのかって。

 

パタカラ パタカラ パタカラパタカラパタカラ……あたしの中に降りつもってゆく喜楽苑の老人たちの声……パタカラ パタカラ……かあさんの声もその中にまじっている。日当たりのいい喜楽苑の廊下をかあさんの車椅子を押してゆく。あの日々の中にあたしは帰りたい。

 

県道212号線の突きあたりに火力発電所の煙突が見える。あたしが生まれた年に1号機の運転が始まって去年全号機廃止になった。千駄ヶ崎トンネルの手前を旧道に入るとさびれたラブホテルがあって、その先のお化けトンネルを抜けてゴミ処理場を通りすぎて、花の国プールをすぎて、海を目ざしてゆけばフェリー乗り場が見えてくる。

 

パタカラ パタカラ パタカラパタカラパタカラ……
老人たちの声が
あたしに降り積もってゆく
その中にかあさんの声もまじっている
(おまえ、かあさんはまだ死んでないとおもうんだ。
(おまえがいつまでもあたしを死なせてくれないから。
パタカラパタカラパタカラ……
かあさんの声が
あたしに降り積もってゆく

 

あたしはどうすればよかったんだろう

 

パタカラ パタカラ パタカラパタカラパタカラ……
ミツコさんを車椅子に乗せて
東京湾を渡る

 

 

(今日の話は)

 

ではもうそろそろ今日の話は終わりです。

 

今日の話をまとめると、自分を押しとどめるものをちょっとだけどけてカッコつけずに詩を書いてみようということ。

 

せっかく書くのだから、自分の能力を出し惜しみせずに今書いているものよりもさらに困難な詩の可能性にも挑戦してみたらどうだろうという話です。

 

さらに短く要約するなら、詩にもっとわくわくしたい。そういうこと。

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