

2019年4月の話
わかりやすい詩、わかりにくい詩
松下育男
今日の話を始める前に今月の『現代詩手帖』のことにちょっと触れます。
4月号の特集は「これから詩を読み、書く人のための現代詩入門」。
まさにこれから詩を書こうかなと思っている人や、書き始めたばかりの人はぜひ読んだほうがいいと思う。
ただぼーっとして、いい詩が書けないかなと考えているよりも、
やっぱり何らかのインプットがあったほうが自分の考えもまとまりやすくなる。
それに、詩についての文章を読んでいると、むしょうに詩が書きたくもなる。
そういうものだと思う。
(詩が書けないとき)
詩が書けない時はあるもので
そういう時はホントになんにも思いつかないんだけど
その理由はさまざま
その理由の一つに
自分に刺激を与えるのをさぼっている
というのもある
自分の中の
ものをつくりたいという思いを
立ち上がらせるための
努力をしていない
詩をたくさん書いている人を
うらやましいなって思うことがある
自分はああいうふうにたくさんは書けないと
思ってしまう
でも
そんなことはないわけ
だれでもたくさんの詩が書けるはず
変な言い方だけど
詩をたくさん書いているから
詩がたくさん書ける
詩をたくさん書いているから
次の詩ができるわけ
めったに詩を書かない人が
いざ書こうとしても
重い車両が動きだすときみたいに
すごくエネルギーがいる
でも
いつも全力で書いている人って
今書き終えた詩が
次の詩の発想を生みだしてくれるようなところがあるから
次の詩が容易にできてしまう
あるいは
最近
すでに書こうと思ってうまくいかなかった発想の元が
書き損じでたくさん残っているから
その中から別の詩ができる
そういうものだと思う
「現代詩手帖」の話に戻ります。
今月号の特集には
僕も「詩にかんするQ&A」という文章を書いているから
読んでもらいたいんだけど
あと、昨年この教室にゲストで来てくれた峯澤典子さんが詩の入門書を何冊か紹介している。
すごく参考になると思う。
入門書って
著者が言っていることも参考になるんだけど
そこで引用されている詩が
ぐいぐい入ってくる
なぜかわからないんだけど
詩って
詩そのままを見せられるよりも
いったん引用されたものを読んだほうが輝いてくる
受け止め方がわかってくる
引用された詩に感動して
詩の読み方の間口が広がってくるということがある
そこから
詩の秘密がかいま見られることがある
で
今日の話です。
(先日のフェイスブック)
3月の初め頃のフェイスブックに
僕はこんな文章を書きました。
読んでみます。
☆
現代詩は
ある程度の分かりにくさがなければ
ダメなんでしょうか
こういう
まっすぐな質問を受けるたびに
途方もない悲しみに襲われる
いったい
どこのだれが
素直に詩を書こうとしている人を
こんなことで
悩ませてしまうことになったのだろう
そんなことは
もちろんない
ない!
☆
僕としては珍しく
ビックリマークをつけたりして強調した
で
こういう文章を載せると
それなりに「いいね」の反応が来て、
それはかまわないんだけど
この僕の言葉を引用したりして
自分の考えをSNSに書いている人がいる
それももちろんかまわないんだけど
ちょっと気になったのが
この文章のあとで、
「そうだ、言う通りだ」と同意を示したあとで
「だから現代詩はもっとわかりやすくなければだめだ
今の現代詩はだめだ
もっと読者が分るものにすべきだ」
そういうことを言い出す人がいる。
かならずいる。
「現代詩の名前のある詩人たちは
あるいは詩壇にいる人たちは
自分たちだけが選ばれた人であるかのようにふるまっていて
鼻持ちならず
わけのわからないことを
仲間内で誉めあっていて
本当の詩からは遠ざかっている」
つまりはそういう考え方ね
どうですか
みんなの中でも
そんな感じを持っている人っているでしょ
そういう考え方をしている人って
たしかに
けっこういるんじゃないかと思う
人が言っていることってね
全部が正しいことがないように
全部が間違っているわけでもない
だから
こういうことを思ったり
言ったりすることを
あげつらうつもりはない
あるいは
ここまで過激ではなくても
この意見に多少賛同する人は
たくさんいると思う
別にそう思うのはかまわないし、
個人の見解だから
さまざまであっていいし
これは正しいとか間違っているとかの判定を
僕がくだせるわけのものでもない。
でもね、僕の文章が舌足らずだからそういうふうに誤解されるのかも知れないけど
ぼくは別に、
現代詩は難しいからもっとやさしくすべきだとは言っていないのね
さっきの僕の文章を
もう一度読んでみます。
☆
現代詩は
ある程度の分かりにくさがなければ
ダメなんでしょうか
こういう
まっすぐな質問を受けるたびに
途方もない悲しみに襲われる
いったい
どこのだれが
素直に詩を書こうとしている人を
こんなことで
悩ませてしまうことになったのだろう
そんなことは
もちろんない
ない!
☆
つまりね、ぼくが言っているのは
「現代詩は、分かりにくくなければだめだ
という決めつけは正しくない」
と言っているだけなの
「現代詩は分かりやすくてもいいんだよ」
と言っているだけで
「現代詩は分かりやすく書かれるべきだ」
とは言っていない。
それからもっと先を考えるなら
「わかりやすい」ってなにか
ってことになる
ただ安易に書くことではないはず
安穏なことではないはず
楽をすることではないはず
幼児化することではないはず
わかりやすいっていうことほど
むずかしいことはない
「わかりやすい詩」っていう言葉は
それほど単純な言葉ではないと思う
人が書いたものを分かるって
いったいなんなんだっていう疑問は慎重に考えたい
そうするとね
わかりずらい詩
というもののいじらしさやかわいらしさも見えてくる
わりずらい詩にも
いろいろあるはず
分かりずらい詩にも
うっとりさせてくれるわかりずらさと
中身の空っぽなわかりずらさがある
分かりやすい詩にも
上出来なのと
くだらないのがあるように
極端な言い方をするなら
どんなに平易な言葉で
平易な内容の詩を書いたところで
全部を分かってもらえるものじゃない
あるいは
ぜんぶを分かってもらうことが
作品にとって幸せなことかどうかというのも
疑問
場合によっては
わかってもらえない部分があるからこそ
詩の総体が分ってもらえる
ということもある
あと
これは論点が違ってきてしまうかも知れないけど
書いた本人だって
どこまでその詩が分っているかも疑問だよということ
書かれた詩と読者の間に
理解度の溝があるように
書いた詩と作者の間にも
理解度の溝がある
創作物には
ふたつ飛び越さなきゃいけない溝があるわけで
でもその飛び越さなきゃいけない溝って
必ずしも悪いことばかりではなくて
むしろ
それがあるからこそ
たまに作者の能力を超えたものができ上がったり
読者を打ちのめすようなものがあったり
するんだと思う
単にわかるかわからないかで
ものごとを判断できるのは
詩の外の世界、
会社の仕事や友人との会話の世界では通用するかもしれないけど
詩の世界ではそうではない
詩は
わかるとかわからないとか
そういうことで
区分けすべきものではない
まずひとつの詩がここにある
その詩によって
どのように読まれるべきかが決まってくる
詩の可能性は決まってくる
一つ一つの詩によって
分かるとはどういうことなのかの定義が
その都度決まってくる
それまでに書かれた詩を範疇にわけて
どの範疇を支持するとかしないとか
そういうものじゃない
1 詩はこういうものだから
2 こうあるべきだから
3 こういう詩を書く
という順序じゃない
まず詩がひとつ生まれる
それからその詩の読み方がおそるおそる逆にでき上がってくる
だから
現代詩はわかりやすくあるべきだ
なんて言ったところでなにものでもない
なにも生み出さない
詩を書きたいという
やむにやまれぬ思いが自分の中で湧き上がってきて
作品を作りあげてゆく
その過程では
あくまでも自分の思いを
自分の言葉で
しっかりと作りあげてゆくことだけを考える
それによってその人の個性や
言葉に対するそれまでに培ってきた方法が
注ぎ込まれているわけで
自分が書けるのはこれしかない
というものを
能力の先っぽまでつかって
書いていればいい
それが結果的に
どこまで読者にたどり着けるかということ
ある種の読者は
わかりやすい詩しか受け付けない
という事実はあったとしても
その読者のためだけに詩をつくろうなんて
もったいないことをする必要はないと思う
人の思いにぐっと入り込む詩がどんなものかを
決めるのは
作者個別の問題
あるいは
わかってもらいたいのではなく
むしろ人の思いに喧嘩をふっかけるような詩を
書きたいと思うのも
作者の自由
自由にやっていい
その詩がわかりやすいとか
わかりにくいとか
あとでいろんな人が感じ
話されることはあるだろうけど
それはそれだけのこと
わかりやすい詩を書こうなんていう思いから
最上の詩はできあがらない
最上の詩を書いたら
それがわかりやすいものだったという事は
あるかも知れないけど
(詩ってどこまで読まれるべきか)
わかりやすさっっていう話に繋がるけど
詩は
もっと多くの人に読まれるべきだっていう考え方がある
こういう考え方って
昔からある
僕はあえてその意見に反対はしないけど
だからどうするかっていうことを考えると
なんていうか
面倒くさくなっちゃう
詩を通常読まない人に
詩をむりに見せて
詩はこんなに面白いものですよと説得することに
むなしいものを感じてしまう
もちろんどんな詩も
詩というものをハナから受け付けない人というのも
たくさんいて
そういう人に詩を読んでもらおうとしても無理
そういうのは話の外
でもね
たとえば学生時代に詩に接していて
社会に出て
忙しい毎日にあたふたするばかりで
今は詩なんか遠くにある
ただ
新聞なんかでたまに谷川俊太郎の詩を読めば
それなりに目を通すし
いいなと思う
そういう人だったら詩をもっと勧めたいという考え方もある
でもね
僕はそういう人にも
特段詩集を目の前に持って行きたくはないわけ
なにも勧めたくはないわけ
忙しい毎日の中で
たまに新聞で詩を目にして
それでいいんなら
その人はそれでいいんだと思う
とやかく言うべきものでもない
手をこっちへひっぱるものでもない
その人が
その日々に何を求めているかなんて
微妙なことはわからないし
その人が何かを自分で選んで生きていけばいい
それ以上にその人に
詩を読んでもらおうとも思わない
詩に惹かれて
詩を読み
詩を書こうとする人は
ハタでなにもしなくても
自分から近づいてくる
詩の言葉を欲しいと思っている人は
自分でとことこ歩いて一冊の詩集へ向かってくる
面倒くさいことを自分でするようになって
やっとその人にとってそれが
かけがえのないものなんだっていうことが
わかってくる
そういうもんだと思う
(店頭に並ぶ詩集、様々な詩集 ー 同列に語れない)
わかりやすいというか
人口に膾炙した詩集で思い浮かべるのが
例えば
柴田トヨさんの『くじけないで』。
ある時点で168万部売れたとか言われているから
今ではもっと売れているんでしょう
表題作を読んでみます。
☆
くじけないで 柴田トヨ
ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで
陽射しやそよ風は
えこひいきしない
夢は
平等に見られるのよ
私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった
あなたもくじけずに
☆
こういう詩なんですけど、この詩はほぼわかりますね。わかりやすいですね。
でもね
この詩は168万部売れたからすごいとか
だから現代詩は
こういうふうに書かないからだめだなんて
僕は思わない
もちろん
こういうのもあっていいと思う
こういう詩が
168万人の人の心に入り込んで
感銘をさせたというのも
元気のない人の背中をやさしく押してあげたというのも
本当のことだし
その事実はきちんと受け止めていたい
ちなみにこの詩集が話題になったころ
2011年頃のことだと思うんだけど
その頃僕は「現代詩手帖」の詩集評を担当していて
この「くじけないで」という詩集も採り上げたことを記憶している
この詩集がなぜ人の気持ちを捕らえたか
というのは
やっぱり立ち止まって胸に手をあてて考えてもいいと思ったから
たとえば2連目の
「えこひいき」なんて言葉は
気が利いていて的確だし
そのあとの「平等」というありきたりな言葉だって
ただつかっているんではなくて
しっかりと柴田さんの言葉にしている
それから
必ずしも自分の事ばかりに目が行っているわけではない。
この詩を読んでいる多くの人のことも
しっかりと考えている
そういうところは
学ばなきゃいけないと思うわけ
(「鳩よ!」の試みと意味)
もう一つ
「鳩よ!」という雑誌のことを話したいと思います
1983年から2002年まで「マガジンハウス」から出ていた文芸誌。
「アンアン「や「Hanako」や「クロワッサン」の
あのマガジンハウスが出す文芸誌だから
大手の他の出版社とは違っていた
おおきく違っていた。
何が違っていたかというと「現代詩」を中心に採り上げていた。
現代詩は現代詩の雑誌にしか通常載っていないのに
マガジンハウスは月刊で現代詩をとりあげた
つまり
どこの大手の出版社もやらない現代詩の雑誌を始めた
それも
詩人の写真を表紙に使ったり
詩人の行きつけの店を紹介したり
詩人の趣味をとり上げたりしていた
でも雑誌の中心にあるのは
まさに現代詩なの
当時は
「現代詩手帖」に書いている人が
「鳩よ!」にも書いていた
普通の本屋さんの店頭に
現代詩の雑誌が平積みで売られた
奇跡のような出来事だった
その平積みで売られている雑誌の表紙に
スマップや嵐ではなくて
詩人の写真が載っていたりした
読者も戸惑ったけど
詩人達も戸惑った
だって
そんなにはでやかなところに出たことがなかったから
荒川洋治がそのことを
「詩は僻地である
僻地であるがゆえに観光地にされてしまった」
と言っていたけど
まさにそんな感じがした
でも悲しいかな
というか
予想通りというか
「鳩よ!」は途中から
現代詩中心の誌面から徐々に変わっていった。
作詞家の特集だったり
みそらひばりだったり
もうすこし大衆向けの特集を組むように
編集が転換してきてしまった
それはたぶん
単純に
それほど売れなかったからだろうと思う
僕は個人的には
このような冒険をしたマガジンハウスを
すごい出版社だと思っている
雑誌としても面白かったし
それでいて
決して表面だけの詩の取り扱いではなかった
でも
詩人の方が
それだけの
こういう雑誌に堪えるだけの器用さを持っていなかったのが
誌面が変わってしまったひとつの理由だと思う
そんな感じがする
晴れやかな場所では
やっぱり詩人は
素人のようなものなんだなと感じた
対応力がない
詩以外にできることが
あまりない
それゆえの詩人なのかもしれないけど
でもね
この「鳩よ!」の試みは
いろいろ考えさせてくれることがあった
つまり
この「鳩よ!」こそが
さっき話をした
「詩というものはすばらしいから
もっと多くの人に読んでもらうべきだ」
という考え方を
正面からどうどうと実践して見せてくれた
そういう冒険というか試みをしてくれたものだと思うのね
言うだけではなくて
そういうことをしてくれた人とか企業なんて
今までになかったから
とても貴重な雑誌だったと
今になって思うわけ
結局
現代詩はやっぱり現代詩
そんなに読者は増えない
っていう結果になってしまったけど
それを確かなものとして知らしめてくれたということでは
すごい雑誌だったんだなと
思う
(松井啓子と阿部恭久)
で
その「鳩よ!」に
テニスをしている2人の詩人が
載っていたことがあったなと
思い出して
というのも
昔
阿部恭久と話をしていたときに
「鳩よ!の企画で松井さんとテニスをしたことがある。」ということを阿部さんが言っていたから
その言葉が妙に記憶に残っていた。
それでウチの本棚を探してみたら
ありました
「テニスボーイ阿部恭久とテニスガール松井啓子の
テニスのあとは、ことばのラリー。」っていう記事
読んでみると
ほとんど2人でテニスのことばかり話しているんだけど
詩のことにもちょっと触れていて松井さんがこんなことを言っている。
「朔太郎って意外に明るいの。明るいっていっては変だけど、コトバがとても軽くしてあるのが好きです。コトバ追いかける、テニスもボール打ってるのが好きなんです。」
まあなんともあっけらかんとして気持ちのいい発言なんですけど。
で
現代詩の雑誌で
テニスをしたこの2人
つまりは阿部恭久と松井啓子というのが
奇跡的な詩を何篇も生み出した詩人2人であることは
驚きといっていい
言葉のラリーとか
どうでもいいんだけど
それから2人の
テニスの腕前はどうでもいいんだけど
よくぞこの2人を一緒にとりあげてくれたものだと
やっぱり「鳩よ!」は、
マガジンハウスはわかっていたんだなと
感心する。
この2人の詩を一度読むと
もう完全にとりこになってしまう
人生のそばにいつも佇んでいてくれるような詩人
そういう大切な詩人というものがいる
この2人こそ
そういう詩人なんだと思う
ということで
2人の詩を読んで
今日の話は終わりにしたいと思います。
すごい詩です。
わかりやすとか、わかりにくいとか、
そんなの吹っ飛んでしまうような詩です。
2人の詩に共通しているのは
詩だけにしか書けないものを書いていること
詩だけが持てる恍惚を与えてくれていること
詩そのものであること
詩の良し悪しとは
わかるとかわからないではないのだ
ということが
2人の詩を読んでいるとわかります
この2人の詩を読んでいれば
詩はどうあるべきかなんて議論は
どうでもよくなります。
☆
かみぶくろ 松井啓子
ゆすりあげて
腕の中の
不安なかたちを整える
その中ほどに
ひとつは水の音をつくって
うすい紙のふちを落ち
底におさまるもののすべてを
わたくしだけがそらで言える
ちいさいふくろのふくらみのへり
ささえきれるだけの重さを
胸高にかかえこむと
中身のどのひとつも
生きものになれもせずに
帰り道をひとしく揺れた
長い坂道をのぼりつめると
また立ち止まり
ゆすりあげて
きつくたばねられたねぎの
その青いところを抱きしめるのだ
☆
どうやったらこれほどの詩が書けるんだろう。
書いてみたいよね。
では次は阿部さんです。
☆
もう秋だ 阿部恭久
きょう私は
のどがかわいて眼がさめた
トイレから眺めるともう秋だ
ぬけるような青空
ぬけるような空腹
スポーツ欄によれば
中日、追い上げ――鮮やか集中打!
走者とコーチが
四段抜きの写真に
昨日の降雨のただなかに静止している
私はトーストをくわえている
三塁をまわる走者谷木
コーチ森下腕をまわして…
アイドリングしながら
きょうの仕事の段取
フロントガラスが青空にふきぬける…
コーチ私はグルグル腕をまわしている
走者私は三塁をまわる
コーチ私はリバウンドボールを捕球するライトの背中をみた
走者私は三塁をまわっている
依然、まわってる!
☆
阿部恭久
必死に生きているぜっていう感じがします。
必死さだよね、つまりは詩を書くって、そう言われている気がします。
話は以上です。