top of page
2018年12月の話
 
​詩人力がついた
​    
​松下育男

 

今日は今年最後のbuoyの会ということでなんの話をしようかなと考えていて、でもなんか考えがまとまらなかった。年の終わりの話だから本当はまとめの話をしなきゃならないわけだけど、まあ年が終わっても来月もあるわけだから今日もとりとめのない話をします。

初めに考えたのは、「どうして僕はここにいるんだろう」っていうこと。これは僕の癖でね、いつも自分のいるところを不思議な目で見たがる習性がある。あらゆるものを見直さなければ気が済まない。無意識に過ごすということができない。慣れるということに恐れがある。だから今こうしていることにとりあえず疑問符をつける。

会社を定年退職して、どうして僕は今ごろやることもなく朝から奥さんに隠れてお酒かなんかを飲んで、昔のことを思い出しながらなんにもしないで一日が終わる、そういう日々を送っていないのだろう。そんなことを考える。

現実の僕は根岸線に乗って、横浜の教室にまで足を運んで詩人たちの前でこうして話なんかをしている。これって何だろうと思うわけ。どうしてこういう状況になってしまったんだろうって。

そうするとね、そういうことを考えていると、自分が生きてきた道筋をどうしても思い出してしまう。

僕はここでなんども話をしてきたように、わりと若い頃から詩に惹かれて詩を読み詩を書きしてきた。でもまさか、68歳になった僕がまだ詩のことを考えているだろうなんて10代の頃には思いもしなかった。

詩は青春の文学だっていう言葉があるように、若い頃に夢中になって年とともに忘れてしまうものかと思っていた。

でも現実はそうではなかったっていうのが驚きなわけ。10代から60代って50年間あるんだけど、経ってしまえばそれほどの時間ではなく、自分が大切に思うものが変わってしまうほどの長い時間ではなかった。

言い方を変えるならね、老年になっても詩は僕を見捨てることがなかったっていうこと。どうしてなにもしないで過ごす老人でいないのかっていうと、いうまでもなく詩がそばにあるから。そういうことなんだ。

もしも詩を書いていなかったら、今の僕はどうしていただろうと考える。きのうと同じ今日をむかえ、今日と同じ明日をむかえるだけだったかもしれない。別にそれが悪いというのじゃない。人それぞれだから。

でも、やっぱりいつまでも自分に何が出来るかっていうことにドキドキしていたい。詩はそうさせてくれる。いつまでも僕を試してくれる。がっかりしたり、有頂天になったりさせてくれる。詩を読み、書いているっていうことはそういうことなんだって分ってきた。それは10代の頃も60代でも変わらない。

どんな明日になるのかが分らない。明日は何ができるのかわからない。何が書けるか分らない。わからないっていう、すばらしいところで生かしてくれる。それが詩なんだって思う。だから詩はすごいと思う。

詩に対する熱い思いはね、10代の頃から持っていた。それはたしかなの。なにをしていたかっていうと詩のことばかり考えていた。授業中も、家に帰ってからも詩のことばかり考えていた。

詩のどんなことを考えていたかっていうと、ただただすごい詩を書きたいと思っていた。息を呑むような美しい詩を書きたいと思っていた。それだけ、それだけなのね。そのためには生きていてなにが出来るだろうってそんなことばかり考えていた。気持ちが悪いと言えば気持ちの悪い若者だったわけ。

たぶんこういう感覚って、人に説明しても理解してもらえないだろうと思っていた。すごい詩ができたら人生もうなにもいらないと思った。

詩を書いてどうしたいとか、詩人と名乗ってどうなりたいとか、そんなことはどうでもよかった。というよりも考えもしなかった。

ただただ息をのむような詩を書きたかった。読んだ後で感動のあまり立ち上がれなくなるような詩を書きたかった。書けるようになりたかった。

だから当時の僕は、詩はひとりで書くものだし、すぐれた詩は本を読めば勉強できるし、人と会ったり知り合いになったりする必要はないと信じていた。

もともと詩を書こうなんていう人は性格的に人とつきあうのが苦手な人が多いから、僕も自分がそうだと思っていたし偏屈な性格だと確信していたから詩の知り合いをつくるなんて考えてもいなかった。

(上手宰)

でもそんな自分のかたくなな気持ちを変えてくれた人がいた。さっき人生の道筋を思い出すって言ったけど、その道筋を確実に変えてくれた人。ひとりで書いていればそれでいいんだと思っていた僕を外に連れ出してくれた人。それが上手宰さんだった。

上手さんって、すぐれた詩をたくさん書いている人だけど、知らない人がいたら今日の忘年会にも来てくれることなっているから、その時に話をしてみてください。僕にとっては特別な人です。

これまで何度かここで話をしてきたけど、僕は若い頃に雑誌に詩を投稿していた。1973年に現代詩手帖で石原吉郎が僕の詩を選んでくれて、この話もいくどかしていると思うんだけど、あのことがなければ僕は詩を書き続けていたかわからない。いや、書き続けていたかも知れないけどずいぶん違った人生になっていたと思う。たかが投稿詩がひとつ載っただけじゃないか、大げさだよと言う人もいるかも知れないけど、僕にとっては決して大げさなことじゃない。ほかのどんなことよりも重要なことだった。

でも、僕に詩を書き続けさせてくれたきっかけはそれだけじゃなかった。同じ頃に詩人会議にも投稿していた。詩人会議の投稿欄でも何回か入選していたんだけど、僕の詩を読んでくれたのは選者だけではなかった、驚くべきことに、詩人会議の編集者も僕の詩を気にしてくれたわけ。その頃の詩人会議の編集をしていたのが上手さんだった。

ある日、その上手さんから手紙が来た。細かいことはもう忘れてしまったけどたぶんこういう内容だったと思う。

「今度、詩の同人誌を始めようと思っている。私は詩人会議の編集をしている者で上手宰といいます。詩人会議の投稿欄でのあなたの詩に注目をしていました。ぜひ一緒に雑誌をやりたいのですが。」

さっきも言ったように、僕はそれまで詩をひとりで書いてゆくつもりだった。でもこんな手紙をもらって感激しない人はいない。ぼくもすごく嬉しかった。自分の詩を読んでくれている人がどこかにいたのかという驚きとともに、ひそかに自分の詩を受け入れてくれる人がいたということに感動をしていたわけ。


それでとにかく会ってみようと思って大久保だか新大久保だかの駅からすぐのところにあった花園という名の薄暗い喫茶店で会った。

ドキドキして、椅子の向こう側には上手宰と三橋聡が座っていた。三人とも緊張していた。すごく真面目に詩のことを考えていて、僕は詩について言いたいことはやまほどあったけど初対面だからなかなかうまく喋れなかった。

ぼくは、あの時に上手さんと三橋と3人で会った時のことを何度も思い出す。人生に何度もない重要な瞬間だった。

この人達は僕と同じだと思った。同じ種類の人たちだと思った。それまで自分のまわりにはいなかった人たちだ。だれとも話の出来なかった詩のこまごましたこと、すみずみのことを話をしてもわかってもらえる人だと思った。僕の知らないいろんなことを教えてくれる人だと思った。

そんな人がいるんだと思った。驚いたし感激をしていた。この人たちとやってみようと思った。この人たちと詩をやってゆこうと、俯いた頭の中で思っていた。

それで始めたのが「グッドバイ」という雑誌です。創刊号が出来たときには嬉しくて枕元に何冊も積み上げて寝た。目が覚めたらまず初めに目に入るように。それくらい嬉しかった。

(刺激が必要)

つまりね上手さんと三橋聡と出会っていなければ、僕にとっての詩というものはおおいに違ったものになっていただろうと思う。ぼくが幸運だったのは上手さんがわざわざ僕なんかのところに手紙を書いてくれたこと。本来だったら僕は、あの頃の僕は自分の方から少しは動き出す必要があった。

詩人も動き出さなきゃ始まらないということ。詩を書く人って、書いているだけでいいやとつい思ってしまう。それでももちろんかまわないんだけど、本人がよければいい話なんだけど、だから余計なお世話なのかもしれないけど、やっぱり詩は外に出してあげる。自分が詩のために何かをしてあげるっていうことも大切なんじゃないかと思う。

詩はね、ひとりでひっそり書いていてもなかなか新しいものへ向かおうという気にならなくなる。刺激がね、やっぱり必要。

僕はこのbuoy の会でみんなの詩を読んでいると、読みながらいろんなことを考える。そうするとみんなの詩を読まなければ見えなかったことが、思いもしなかったことが見えてくる。自分ひとりの頭で思いつくことなんてタカが知れている。やっぱり常に人の詩を読んで人の言葉に耳を傾けていないと新しい考えなんて生まれてこない。

書くことって、自分が受けた刺激に対する反応だと思うわけ。何も吸収しようとしないところに反応も生まれてこない。

(現代詩手帖)

似たようなことが現代詩手帖の投稿にも言えて、今年選者を引き受けてこの5月から毎月大量の詩を読むことになった。

で、入選した詩については毎月その感想を雑誌の中に書いているけれども、実は入選しなかった人の詩も当然のことながら毎月じっくり読んでいる。ずっと入選していない人のことも毎月読んでいるとすごく気になってくる。だって入選している人よりも落選している人の数の方が圧倒的に多い。

多くの人が発売日に雑誌を開いて、自分の詩が載っていないかとどきどきしながら後ろの方の投稿欄のページを開いて、ああまただめだったかとがっかりしてって、そういう姿がはっきりと見えてくる。

その姿ってものを書く人間にとっては人生そのものなわけ。その瞬間で心持ちががらりと変わってしまう。生きているそのものがそこに凝縮している。

投稿詩を読んでいて、この人はどうしてこうなってしまうんだろう、ここをこうしたらぐっとよくなるのになって思う人が何人もいる。でもそういう人に電話をかけて個人的に教えてあげては不公平になるし、もちろんそういうことはしない。

言いたいことは、入選作のことを書いているだけが選者として受け止めていることなのではなくて、それ以外にも落ちている詩からも沢山の刺激をあの投稿欄からもらっているということ。

そのうちに、今落選している人たちの中から詩のなんたるかをある日つかんでぐっとよくなる人も必ず出てくるだろうと思う。そういう人は後に選者だった僕に会って、あなたが落とした私の詩はこんなにすごかったんだって僕に見せつけてもらいたいと思うわけ。今は詩の肝心なところをつかみ切れていなくて悔しい思いをしている人にはホントにそうなってもらいたいわけ。

僕も昔投稿をしていたけれども必ずしも入選していたわけではなかった。落ちた詩もたくさんある。でもね、詩集を作るときには投稿で落ちた詩もいくつか拾った。だって、ある時点で1篇が選者の目に止まらなかったというだけでその詩を捨ててしまうのはあまりに安易で冷たいと思ったから。詩って1篇では目立たないけど他の自分の作品の中に入るとしっかりその役目を果たすということがある。だから自分の目で自分の書いた詩を見極めなきゃいけないと思った。

投稿で落ちたからって全部駄目っていうことじゃないんだ。世の中そんなに単純じゃない。もっと長い目で遠くを見ながら詩を書いていていい。今は人に遅れをとっていても、その人その人の伸びる時期というのは違っていて、あとで取り返すことだって可能なんだっていうことを、真面目に取り組んでいればそういう可能性があるんだっていうことを、落ちている人一人一人に言ってあげたい。そういうことを落ち続けている人には伝えたいと思う。その人たちはまさに僕でもあるから。

(詩の教室の意味)

でね、この詩の教室 buoyの会に来ている人たちは僕の若い頃よりもずっと自分のことを考えていて、勇気があって、わざわざ詩の教室に来てくれている。

だからことさらこんなことを言う必要もないんだけど、ここは自分の詩を人がどう読むかっていうところが一番大事だけど、それだけじゃなくって他の人たち、詩人達がどんなことを考えてどんなふうに生きていてどんなことを語るかをしっかり観察できる場でもある。受け止める場でもある。感じとる場でもある。

そうして感じたことがまたひとりにもどって詩を書いているときに、迷ったときの指針になると思う。こんなときに廿楽さんだったらどうするだろう。こんなときに長嶋さんならこの詩をどう終えるだろう。いろんな経験をため込む場でもあると思う。

自分ではないけれども、自分のようなひとたちが沢山いる場所。それがこの場所。そんなとこめったにない。

それってぼくが上手さんや三橋聡と出会った日と同じだと思う。

(太宰治の宰)

ところで話はちょっと変わるんだけど、さっき話した上手宰の名前だけど、上手宰の宰は太宰治の宰なのね。太宰治の治でおさむではなくて、太宰治の宰のおさむなの。上手宰って本名だから、上手さんのご両親がつけたのだろうけど、上手さんの宰という名前はきっと太宰治から来ているんだろうと思う。

太宰治というと、ぼくはすぐに思い浮かべる文章がある。詩人について書いている文章。これは辻征夫さんもエッセイの中で引用しているから知っている人もいると思うんだけど、こういうのです。

「郷愁」   太宰治

私は野暮な田舍者なので、詩人のベレエ帽や、ビロオドのズボンなど見ると、どうにも落ちつかず、またその作品といふものを拜見しても、散文をただやたらに行(ぎやう)をかへて書いて讀みにくくして、意味ありげに見せかけてゐるとしか思はれず、もとから詩人と自稱する人たちを、いけ好かなく思つてゐた。黒眼鏡をかけたスパイは、スパイとして使ひものにならないのと同樣に、所謂「詩人らしい」虚榮のヒステリズムは、文學の不潔な虱(しらみ)だとさへ思つてゐた。「詩人らしい」といふ言葉にさへぞつとした。(後略)

まあ、ずいぶんないいようだなと思うんだけど、でもあながち全面否定は出来ない。特に「散文をただやたらに行(ぎやう)をかへて書いて讀みにくくして、意味ありげに見せかけてゐる」のところは思いあたるフシがないわけではない。

これって太宰治だけじゃなくって、あるいは当時の話というだけではなくて、今でも多くの人が感じているのかなと思うわけ。

詩人っていうのは
大げさなものいいをしている人で
どこかうさんくさくて
ひとりよがりで
分りづらくものを書いて
人と関わるのが下手で
お金がなくって
ちょっとしたことで傷ついて
すぐにひとりになりたがって
友だちがいなくて
うっとりとなりがちで
きれいなものにはぞっこんで
ことばの近くに生きていて
真面目で
詩が書ければなにもいらなくて
って
たしかにそういうものなのかなって思うわけ。

(老人力、詩人力)

またまた話が飛んで申し訳ないけど、何年か前に赤瀬川原平が「老人力」って言葉を作って、耳が遠くなったり動きが鈍くなると「老人力がついた」って言っていたことがあった。こないだふと思ったんだけど「老人力」っていうのがあるんなら「詩人力」っていうのもあるんじゃないかなって。

「詩人力がついた」っていうのはどんなことかなと暇なときに考えていた。

つまりね、意味の分らないことを書き始めたら「詩人力がついた」っていうわけ。

極端に発行部数の少ない本ばかり読むようになったら、「詩人力がついた」っていう。

まあそんなふうにふざけていても意味がないからもう少し真面目に考えると、見えないものの姿が見えてそれをなぜか言葉で表現できてしまうようになった人を詩人力がついたっていう。

あるいはこの世の聴こえない音を聴き取ろうとしてじっと全身を清ましていることを詩人力がついたっていう。

要領が悪くって、お金になるようなことは苦手で、人に頼まれたわけでもないのにひたすら言葉のそばでうっとりとしている人のことを「詩人力がついた」って言う。

でね、そういう詩人という人が日本にはどれくらいいるかというと、これは先日送られてきた「現代詩年鑑」で巻末に詩人の住所録が載っていて、正確に数えたわけじゃないんだけどたぶん1500人くらい載っている。

ここに載っていない詩人が仮に同数いるとしたら3000人くらいの詩人が生きているんだということになる。3000人の詩人力のついた人が日本にはうろうろしているだなと思うとね、ちょっと勇気が出てくる。

話がどんどんずれてしまうのでもうそろそろ終わりにしたいと思います。詩人ってどういう人かっていうことで太宰治の「詩人はシラミ説」だけではさすがにあんまりなので、僕の好きなジェイムス・リーヴスのまっとうな言葉を引いておきます。

「詩を書くひとすべてに当てはまる詩人の定義を作ったひとはだれもいない。しかし理想的に言えば、詩人は他のひとびとに似ていなくもないと言うことはできる。彼は多くのさまざまなひとびとに似ている。しかし彼らと一線を画しているのは異常に発達した言語能力だけである。どんなに専念しても必ず詩人になれるとは言えないが、潜在的にはだれでも詩人に生まれついている。」

こんなところが妥当なのかなと思います。

それはともかく大宰治が「讀みにくくして、意味ありげに見せかけてゐる」と言ったものが本当に詩人の詩なのか。そこでひとりの詩人の詩を読んでみようと思います。上手宰さんの詩を読みます。もちろんこの詩は決して読みにくくはないし、意味あり気にも見せかけてはいない。詩の中いっぱいに本当の生きる意味が詰まっていると思う。太宰さん、この詩はどうでしょうと訊きたいところです。

運動会     上手宰


元気な子ども達にまじって
透明な死者が
綱引きをしている
力は全くないので
勝ち負けには関わりがない
ただ 綱に触れていたかったのだろう
子どもの死者だったから
その手が触れたところからは
音楽がわき上がっているのだが
生者には聴こえない
生きている子ども達は
その音楽を聴かなかったが
綱を引っ張るたびに空を見上げては
深い秋の空に引き込まれていくような気がした

10代の頃も60代の今も、詩を書いていてこれから自分がどれほど書けるかなんてわからない。自分の才能を疑うことはしょっちゅうある。でもそんなことを思い悩んでもなにかがわかってくるわけではない。

もしかりに才能がなくて書いてもつまらないものしか出来ないのだとしても、僕は生きている間にその能力の全てを出して終わりたいと思う。詩に書けることはすべて書いて終わりたいと思う。この生涯で詩に惹かれ、詩を選んだのだから。

bottom of page