

2019年7月の話
どうしても言っておきたいこと
松下育男
今日は「どうしても言っておきたいこと」
という題で
1冊の本と、ひとつの雑誌についての話をしたいと思います
ところで
詩を書く時に
まず何を書こうかと考えますね
もちろん自分の頭の中に浮かんだことを書くわけだけれども
そのいくつか浮かんだことの中の
どれを書くかということを
考える
頭の中にはいろんなことが
漂っているわけで
思い浮かんだことを片端から全部書くわけには行かない
自動筆記みたいに
何も考えないで書いて
それが立派に作品になるんなら苦労はしない
でも
大抵はそういうの
楽しいのは書いている自分だけであって
作品としては中途半端なものしかできない
だって
普通の自分は
普通のことしか考えていないから
そんなの自動筆記したところで
なにものでもない
つまりね
みんなが考えそうなことを書いても
つまらない
だからそういうのは書かない
でも
かといって
突拍子もないことを書いても
だれにも通じないだろうから
そういうのも書かない
では
何を書けば詩になるかというと
みんなが考えているその向こう側を書けば詩になる
みんなが考えているその一歩先の踏み出しを書けば詩になる
それが詩として
あるべき姿なんだと思う
そのみんなが考える一歩先のことって
言い換えると
普通の人が言わないことをあえて言ってみる
ということでもある
恥ずかしがったり
カッコつけていたり
世間体を気にしたりして
書かなければ何事も起こらないですむだろうということ
そういう安全な所を
一歩踏み出す
ということ
読む人は
読み始めて
そうだなそういうこともあるなと
思いながら読んでいる内に
え?
そこまで考える?
そこまで書く?
という感じで驚く
その驚きを
感動というのだと思う
なにも
露悪的になれっていっているわけではないの
誰かの秘密を暴露しろと
言っているわけではない
間違っても
詩で
人を傷つけてはいけない
そうではなくて
もっと健全に
発想の垣根をまたぐことが
大切だと思う
それで
今日は僕も
いつも話すその向こう側のことを
普通だったら話さないことを
まず話そうかと思います
(昔の話)
恥ずかしい思い出をひとつ話そうかと思います
言葉って
取り返しがつかないものなんだという話です
一度言った言葉は
もう飲み込むことはできない
僕が小学生の頃の話です
四年生だか五年生だか
そんな年齢の頃です
僕には一人の友達がいて
その友達
T君はすごく引っ込み思案でおとなしい少年だった
というのもT君は
ひどい吃音で
そのせいであまり人と話をしたがらなかった
僕も当時は
どちらかと言えばおとなしい子どもで
Tくんと話をしていると
落ち着いていられたし
好きな本の話なんかをよくしていた
一緒に遊びにも出かけたし
仲のよい友人だった
ある日
学校での出来事なんだけど
なにか行事が終わって
僕はちょっと気分が興奮状態にあった
で
クラスの何人かと
愉快に話をしていた
その中には好きな女の子もいた
その時
うしろからT君がきて
ぼくの背中をちょんとつついた
僕は振り向いた
そうしたらT君は
何か僕に言った
で
その時に僕がT君に返した言葉が
「え?何言ってるのか分らないよ」
そんな言葉を言った
つまり
T君は吃音だから言葉が聴き取れないことがよくあったから
何言っているのか分らないというのは
本当のことではあるんだけど
僕の気持ちの中では
それだけの意味ではなかった
つまり
その場にいたみんなを笑わせようという思いが
あった
T君が吃音で
話が分りづらいというのを
みんなの前で
あからさまにぼくがあげつらってしまったというわけ
そういうことだった
あとで自分の気持ちを考えると
そういう気持ちが間違いなくあった
みんなはちょっと笑って
そうしたらT君は
僕に話があって来たはずなのに
もういいよ
という感じで
背を向けて向こうへ行ってしまった
それからすぐに
僕は自分のしでかしたことの恐ろしさ
残酷さに気づいた
情けなさ
みっともなさ
取り返しのつかないことを言ってしまったことへの
後悔にさいなまれた
で
その晩
T君の家に行って
謝ろうとしたんだけど
会ってくれなかった
結局
その日が
T君と話をした最後の日になった
T君はもう
僕とは決して話をしてくれなくなった
時々
T君が別の友人と話をしている脇を通りすぎたけど
T君は僕の方を
見向きもしなかった
あの日のことを
ぼくは
あれからもう六〇年も経っているけど
繰り返し思い出している
言葉って
いくら繕っても
自分の本性が出てしまう
隠しても
自分のくだらないところがでてしまう
ああであってはいけないんだ
自分はああであってはいけないんだという思いで
僕はそれからの六十年を生きてきた
僕は詩を書くときに
時折
あの日にT君に言った残酷な言葉を思い出す
あの言葉に対する言い訳をするように
うつむいて長年
詩を書いてきたのかも知れない
では
本題に移りたいと思います
(『希望はいつも当たり前の言葉で語られる』)
ここに一冊の本があります。
白井明大さんの『希望はいつも当たり前の言葉で語られる』。
白井さんは、この「buoyの会」にも何回か来てくれたことがあるし
ご存知の方も多いと思います
言うまでもなく
白井さんはみなさんと同じように詩人なわけです
でも
この本は詩集ではない
詩は引用という形で入っているけど
詩集ではない
エッセイ集です
白井さんがこれまで生きてきた中で
胸を打たれた言葉
自分の生き方を変えてくれた言葉
振り向かされた言葉
そういう
自分を通過していった言葉について
その時に経験したことや
考えたことをからめて
だれにでもわかる簡単な言葉で書いています
真摯に言葉に向き合って
書いています
態度としてはね
言葉について書いているというよりも
言葉について
言葉の承諾を得て書かせてもらっている
そんな雰囲気の本です
この本のいいところは
背伸びをしていないところ
自分は偉いぞというところではないところで書いていること
思ったそのままを書いているところです
みんなが知らないことを書こうとしているのではなくて
みんなが知っている
あるいは経験したことがあるようなことに
あらためて目を添えている
見つめている
さっき
思ったそのままを書いていると言ったんですけど
思ったそのままって
皆さんもわかると思うけど
やってみるとなかなか書けない
どうしてもカッコつけて
りこうぶってしまう
でもこの本は
決して自分が人と違うところにいるのだとは
言っていない
そこが白井さんにとっての
僕がさっき言った一歩先を書く
ということなのだと思う
がむしゃらにいろんなことに立ち向かって
失敗して
だめな自分と向き合って
反省して
謝ってうなだれて
それからまた
恥ずかしげに顔をあげて
そんなふうなことを
正直に書いている
で
そんなわけで
この本は是非読んでもらいたい一冊なんですけど
この本を読んでいてもうひとつ感じたことがある
それは何かって言うと
白井さんというのは
新しいタイプの詩人なのだなっていうこと
どこが新しいかって言うと
詩人って
当たり前のことだけど
普通は詩を書いて詩集を出す
それで
何冊か詩集を出しているうちに
詩に関する散文や、詩にまつわる評論やエッセイを書くようになる
普通はそういう順番だと思うわけです
1に詩集
2に評論、エッセイ
2の評論に付いては
詩集を出しながら同時に書いている人もいる
あるいは
詩はあまり書かないけど
評論集は何冊も出すという人はいる
でも
すぐれたエッセイを書いて
そのエッセイを読んだ人が
この著者は
ではどのような詩を書いているのだろうと思う
そういう
エッセイから詩集へ行く順番の人って
あまりいないと思う
通常
詩人にとって
エッセイ集っていうのは
詩集の後ろに立っている
白井さんの場合は
エッセイ集が詩集の後ろにいるのではなくて
エッセイ集と詩集が
並んで立っている
白井さんはまさに
そういうタイプの人であるわけ
エッセイが
詩を包み込んでいる
白井さんのエッセイを読んでいると
白井さんの詩集を読みたくなる
そういう順番って
一般的な読者
というのも変なんですけど
いつもは詩集を手にとらない読者にとっては
エッセイがとてもいい詩集の手引書にもなりうる
案外それは
自然な流れなのかも知れないなと
思ったわけです
このエッセイ集を読めばわかるけど
散文だからと言って
冷静に論理立てて書かれているわけではないのね
詩を作るときの熱量がそのまま保たれている
だから白井明大という感性が
エッセイと詩を
同じところから生み出している
詩を読まない人に
いきなり詩集を読んでみたらどうだろうと
説得するよりも
エッセイから入ってもらう詩集
というスムーズな形もあるんだなと
思いました
そういう意味で
白井さんは今までにあまりいないタイプの
新しい詩人だと思った
ということは
エッセイに限らず
詩人がいきなり詩集から入るのではなく
別の場所で自己表現をしていて
その表現が詩の方へ向かうという人も
これから出てくるのかな
出てきてもらいたいなと
思います
舞踏から入る人
歌から入る人
芝居から
映像から
ネット表現から
本の編集から
さまざまなところで生まれた才能が
詩の方へ流れてくる
そういうこともありうるんだなということを
この本を読んで思いました
(「森羅」)
今日のもうひとつの話は「森羅」という同人詩誌のこと
興味のある人は
ここに置いておきますので
持って帰って眺めてください
この雑誌は
池井昌樹と粕谷栄市という
二人の著名な詩人が出している雑誌です
もちろん二人の詩が載っているわけですが
そこに毎回ゲストの詩も載っています
(詩人であるということのありかた)
この詩誌を読んでいると
いくつかのことを考えるわけですけど
ひとつは
どうしてこんなに著名な詩人が
わざわざ手間とお金をかけて
同人誌を出すのだろうということです
粕谷さんや池井さんの詩なら
載せたいという人の雑誌が他にもあるだろうに
なぜ自分で出そうとするのだろう
もちろん本人達に訊いてみなければ
本当の理由というのはわからないんですけど
勝手に考えることはできる
僕はね
そこに
詩人であるということの生き方の本質が含まれていると
思うんです
詩人になりたい
詩人として一人前になりたいという人たちが
日々どうやって生きているかっていうのは
想像できますね
普通の人たちのことだから
学生であったり
サラリーマンであったり
主婦であったり
年金生活者であったり
生活の形は様々であるけれども
詩人になりたいと思って詩を学び
書いている人の日々っていうのは
本来の役割
学生であったり勤め人であったりということために
そのほとんどの時間を費やしているわけです
悩んだり
喜んだり
ともかくも本来の役割に多くの時間を割かれて
その合間に
無理にでも時間をつくって
詩と取り組んで生きている
たぶんそうだと思う
電車の中でふときれいな言葉をつかんだり
眠らなきゃと思いながら目をつむると
いやこのまま時間に流された生活だけで終わりたくない
と
ベッドから起き上がって
眠いのにまた机に向かってみたり
そんな感じなのかなと思うわけです
では
そういう人が努力をして
すぐれた詩を書くようになって
一人前の詩人になったとします
でも
その人たちの
その後の生き方
あるいは日常ってどういうものだろうと考えると
なかなか想像できない
具体的に言うと
池井さんや粕谷さんは
どんなことを思って
どんな日々を送っているのか
っていうことね
で
僕が言いたいのは
この「森羅」という同人誌には
その答えの一片が書かれていると思うのね
「森羅」そのものが
その答えだと思う
つまり
著名な詩人は
詩を書き始たばかりの
いつかりっぱな詩人になりたいと夢を見ている人と
なんら変わらない
ということ
なんだそんなのはじめからわかっているよ
という人がいるかも知れないけど
そこをあらためて確認しておきたいわけ
詩人になる
詩人として極めるということは
生きている時間の中で
一心に自分の役割を全うするという人生の中で
なにも特別なものにはなることではない
ということ
なにか特別なところへ行けるということではない
ということ
海の向こうに
夢のような世界があるからそれを目指そうと
舟に乗り込むことではない
海の向こうにも
自分と同じ自分がいる
詩を書いて生きていくことの
その根本にあるのは
ひたすら詩を書いて
定期的に
書き上げた詩を
同人誌や個人誌に地道に載せてゆく
そういう行為なのだと思う
それが詩人の根本だと思う
それ以外にはないのだと思う
初心者であっても
粕谷さんや池井さんのような有名な詩人であっても
まったく変わらない
詩人っていうのは
初心者だろうが
ベテランだろうが
みんな似ている
似ている心持ちをもっている
言葉への同じような接近の仕方をしている
似た生き方をする
ひたすら
くりかえし
自分の言葉が生まれてくる場所に目を凝らして
うっとりと生きてゆく
それは詩を書く人
みんな同じなわけ
そういう行為以外には詩人であることの意味はない
もちろん著名な詩人には
時々は
はでやかな出来事もあるかも知れない
でも
そんなの関係ない
そんなの
詩を書くという行為の
枝葉の部分でしかない
根本はみんな同じなの
著名な詩人も
無名詩人と同じように
詩を定期的に書いて
それをそっと自分が作った詩誌に置いてゆく
その行為の中にしか
詩人であることの秘密と恍惚はないと
僕は思う
それが詩人の日常であり、生活であり、生きかたであるわけ
詩人になるっていうことは
詩人になろうとすることと
なんら変わりはない
どこかに
詩人というゴールの旗があるわけじゃない
ひたすらに
思いのたけを一篇の詩に書いてゆく
それだけ
それだけのことなわけ
詩を書いてなにかいいことを獲得したいなんて
思っても叶わないし
思うべきじゃない
いやな言い方だけど
結果を急がない
ひたすら思いのたけを書き続けてゆく
それを生きている限り差し出していく
それだけの行為に生き甲斐を見つけられない人は
詩に向いていないと思う
(なぜ詩にもどってきたか)
僕はずっと昔に詩を書いていて
それから詩の世界からいなくなってしまった
その理由は何度かここで話してきたから
繰り返さないけど
でも
こうして詩に戻ってきたのはなぜかって言うと
そのまま書かないで
ただ昔の詩を思い出して寿命を終えるのではなく
あと数篇の
自分にしか書けない詩を残したい
っていう気持ちがあった
でも
それだけではなく
もうひとつ
詩に戻ってきた理由があった
それは
詩を書いて悩んでいる人に言っておきたいことがあったからなんです
だからこうして僕は
毎月話をしている
その言いたいことっていうのは
すでにここでも何度も言っているんですけど
「結果を求めすぎない」っていうことなの
自分の能力をつかって詩を書く
そのこと自身に喜びを見いだす
それだけに集中して
幸せにすごそうよということなんです
誰かの詩と比較したり
誰かに褒められることばかり期待したり
誰かの詩を貶めたり
そういうことに夢中にならないほうがいいよ
ということなんです
手元から離れた自分の詩に
多くを託さない
誰かに褒められたりっていうのは
もちろん嬉しいことではあるんだけれども
そのためだけに詩を書いていると
欲望がとめどもなくなる
そうすると
自分の感情がいつもぐらぐら揺れていて
制御できなくなる
ものを作っていて
そんな不幸に陥らないようにしようよ
というのが
僕の言いたいことなんです
僕がまた詩の世界に戻ってきて
こうして教室をやっているのも
ひとつは
それが言いたかったからなの
この教室をやっている限り
僕はまた同じ話をすると思います
そのために
詩の世界に戻ってきたのだから
(手書き)
で最後に
「森羅」を読んでいてもうひとつ気がつくのは
すべてが手書きであること
がり版刷りの小冊子のようであること
これは見ての通り
池井さんが毎回
原稿を手で書いている
先日池井さんと話をする機会があって
その時に彼が言っていたんだけど
人の詩を一文字一文字書き写していると
その人の魂が自分の中に入ってくる
作者がその作品を書いている時の思いが
じかにこちらに入り込んでくる
そんなことを言っていた
そういう体験って言うのは
池井さんだけではなくて
詩を書いている人は
たいてい持ったことがあると思うんです
好きな詩人の詩を
ただ目で読むだけではなくて
ノートに書き写してゆく
書き写してゆく速度で
詩の内容が自分の中に入り込んでくる
だから
池井さんのこの言葉は
特に珍しいものではないけれども
言葉って
珍しいから聴くに値するのではなく
確かに感じたことだから価値があるのだと
思う
自分で書き写してみる
っていうのは
詩をわが物にするためには
侮れない行為だと思う
できたら今日の教室の帰りに
一冊の新しいノートを買ってきて
好きな詩人の詩を少しずつ書き写すことを始めてもらいたい
そうすることを
強く勧めたい
書き写していると
自分がその詩のそのフレーズを
思いついたかのような錯覚を起こす
その錯覚は
発想の
今まで見えなかった道筋をたどることであり
自らの詩作を
より多用なものに導いてくれる
ということで
最後に池井さんの詩を読んで
今日の話は終わりにします
(池井さんの詩)
この詩は「森羅」13号から
☆
王冠 池井昌樹
たのしかったか
たずねられたが
なんともこたえられなくて
かおあからめて
王冠をとり
ほっとして
めがさめた
いったいどんな王国の
ぼくは王様だったのか
ゆめはさり
ぼくもきえ
あかさびた
通貨のような王冠ひとつ
みずをたたえたなつかしい
ほしがたずねた
たのしかったか
☆
今日の話を三つにまとめます
一、ひたすら詩だけを書いているのではなく、別の、自分の好きなジャンルから詩へという道筋もあるのではないか
二、詩人になることは何か特別なことではない
それを承知で書いていけるだろうか
三、きれいな詩は自分の手で書き写してみよう
自分の詩の可能性を広げるために
ということです