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2018年6月の話
 
​老人と詩
​    ー避けられない寂しさを書くー
​松下育男

 

(1)ミッシングワーカー

 

(昨夜のテレビ)

 

昨日の夜
テレビをぼーっと観ていたんだけど
観ているうちに
身を乗り出してしまった番組があった
「ミッシングワーカー」のことをとり上げたNHKの番組

 

年をとってくるとね
NHK以外の番組って
たいてい幼稚に見えてしまう
これって年寄の一つの症状なんだろうね

 

でも
そう見えてしまうんだからしかたがない

 

でね、その番組は
仕事がない人を取り上げているんだけど
失業者とも違うわけ

 

つまりね
仕事を探していないから
失業者ではないわけ

 

だから失業率の計算には入ってこない
でも
仕事をしていないの

 

百万人以上いるっていっていた

 

(僕の場合)

 

僕も昨年
3月に会社を辞めて
しばらくぶらぶらしていた

 

年金もそれなりに入ってくるし
本でも読んでいようかなって思っていたわけ

 

せっかくだから
現代詩の歴史でもきちんと勉強しようかと
思っていたわけ

 

でね、最初の1ヶ月はそうしていたんだけど

 

毎日明るい窓辺で本ばかり読んでいると
だんだん
なんだかつまらなくなってきて

 

たしかに本を読むことは好きなんだけど
いつだって思う存分読んでいていいんだっていう状態が
続くと
どこか息苦しくなってきて

 

つまり
一日中本なんか読んでいられなくなって
仕事をしようかなと思った

 


この石川町にあるハローワークに
ちょうど去年の今ごろ
通っていた

 

今のハローワークってね
すごく親切で
毎週行っていると
高齢者には親切な担当がついてくれて
ホントに親身になって仕事を探してくれる

 

長い間英語で苦労をしてきたから
もう英語で仕事をしたくないなって思って
特技には財務、教育
そんなことしか書かなかった

 

でも
そういう状況で仕事を探しても
なかなか面接まで行かない

 

履歴書で落とされる

 

年だからね
しかたがない

 

でもそのうち
7月頃かな

 

もう2ヶ月ほど毎週ハローワークに通っていて
担当者ともずいぶん親しくなった頃に
その担当の人が
ハローワークの関係の
人材開発の仕事を見つけてくれて
ラッキーにも面接したら通ったの

 

僕はね
面接には強いの

 

その仕事は
公の資格取得のトレーニングの手伝いをする仕事で
いろんなトレーニング会場に行って
会場の簡単な準備をしたり
参加者の受付をしたり
講義中に眠っている人の肩をたたいたり
そんな感じ

 

予定表を見ると
秦野の公民館とか
川崎のなんとか会館とか
町田市だとか
日によって会場も変わる
なんだか楽しそうな仕事だなって
楽しみにしていた

 

行き帰りに本も読めるし

 

ああやっとまた仕事ができるなと思っていた

 

でも
そうしたら
八月のある日
亡くなった犬のことなんか思い出しながら
自転車で坂道を下っていたら
見事にこけて
左脚を骨折してしまった

 

植え込みに倒れて
脚のイタミを感じたときに
真っ先に思ったのが
仕事のこと

その3日後から仕事をする予定でいたから

 


そのまま入院して
病院から仕事先に
一度も仕事をしなかった仕事先に電話を入れた

 

申し訳ありませんって

 

でね
結局
もう仕事をするなってことなんだなって
そういうお達しなんだなって
空を見上げていた
あきらめた

 

(話をもどすと)

 

でね
話をもとに戻すと
そのテレビでやっていた人たちは
僕のような仕事を探している失業者とは
違う

 

言い換えるなら
仕事を探すことも出来ない人たちなの

 

どうしてかっていうと
どうして仕事をしていないのに仕事を探そうとしないかっていうと
時間がないから

 

仕事をする時間がないわけ

 

仕事をしなければ生きてゆくお金が稼げないのに
仕事をする時間がないわけ

 

その
一つの理由はね
親の介護
親の介護のために時間をとられて仕事を辞める
だからお金が入ってこない
だから貧しくなる

 

時間もなければ
お金もない
そういう状態なわけ

 

これって
別に親の介護だけではなくて
普通に仕事をしていて
仕事がいやになってやめて
同じような状況になることもある

 

番組でとり上げていたのはね
主に介護 
ということ

 

そうなると
自分は無職だから
親の年金で細々と暮らすことになる
就職活動もできない

 

先細りっていうこと

 

いつか親が亡くなって
やっと働ける時間ができた時は
でも
もう社会に適応する元気がでてこない

 

たとえば15年ぶりに就職したとしたって
PCのない時代にスキルを身に付けた人は
今すぐに仕事を始めるっていったって
すごく大変

 

会社へ行って
出勤記録だって
PCに向かってIDとパスワードを入れる時代に
なっている

 

会社に来ましたよっていうところから
つまずいてしまう

 

こんな面倒な操作
だれもが適応できるわけじゃない

 

その時点で情けない気持ちになる

 

それって
親の介護だけが理由じゃなくて

 

自分の病気だったり
別の出来事に遭遇したりして
似たような状況にもなる可能性はある

 

(話す相手がいない)

 

そうなるとね
話す相手がいない

 

40代50代の働き盛りの人たち
働き盛りっていやな言葉だけど
たしかに働き盛り
生き盛りって言葉はないけど
そんな頃

 

どうしてそうなってしまったんだろうって
その人たちももちろん自分でも考えている

 

その人たちの
若い頃の職場での写真が画面に映るわけ

 

どれも生き生きとしていて
きれいな笑顔で
留学したあとで外資系企業で働き始めていたり
営業仲間と笑っていたり
どこにでもいる若者なわけ

 

つまり
もしかしたらこれは自分かも知れないと
思えるような若者なの

 

きちんとレールにも乗っている

 

それが10数年後に
笑いあえる人がそばにいなくなる
きれいにいなくなる

 

そんなことだれにも想像できない

 

言い換えるなら
だれでもそうなるって
思った

 

誰でもそうなる可能性はある
ちょっとした運命の行き先なわけ

 

特に男の場合は女の人よりずっとつらいものがある

 

女性は
自分の身の回りや
自分のことの面倒をみることができるけど
男はなんにもしない人がいる

 

ゴミも捨てられなくて
ゴミ屋敷になってゴミの間で住んでいる人の例も
テレビはやっていた

 

「死ぬ力もない」って訴えていた男の人がいた

 

そうか
生きているって
死ぬことが出来ないからそうしている人もいるんだなって
そんなつらいことも考えた

 

どうしたらいいのかわからないこと
って
ホントにあるんだなって思った

 

自分だったらどうしたろうって
テレビを見ながら考えていたけど
そんなに容易に解決が見つかることって
ありえないわけで

 

みんな
その場で一番よいと思える決断をして
結局はそうなってしまうことって
あるんだろうなって思った

 

(2)送別会の話

 

(僕が若かった頃)

 

もうひとつ別の話です

 

僕が若かった頃
会社を勤め上げた女性がいた
その頃はまだPCが出始めた頃で
まだ個人で持っている人も少なくて
携帯電話なんてもちろんなかった

 

定年で会社をやめていく人に
記念品を贈りたいんですけど
なにか欲しいものがありますかって聞くと
パソコンが欲しいって
たいていの人が言っていた
そんな時代

 

退職パーティがあって
その人が挨拶をしたんだけど
その挨拶を
今でも覚えているわけ

 

その人の挨拶はね
こういうのだった

 

これで会社を辞めるけど
私は寂しくないの
パソコンを買って
これからメールというものを学ぼうと思っている
そうすれば
そばにだれもいなくても
世界中の人とつながれる
そういう時代に生きているから

 

って
そんな内容だった

 

晴れ晴れとした顔をして
挨拶をしていた

 

僕はそうなんだなって思いながら
それを聞いてた

 

(まちがってはいない)

 

その人の言うことは
間違っていなかったと思う

 

確かに
メールアドレスさえあれば
たくさんの人とつながれる

 

だからその人の言うことは間違っていなかった

 

だから
これはその人に対して言うんじゃなくて
あくまでも一般論としての
話だけど

 

つまりね
メールができて
アドレスをたくさん知っていて
だから年をとっても寂しくないかっていうと
そうでもないんじゃないかなって
思うわけ

 

やっぱり寂しいと思う

 

アドレスを知っているからって
用もないのにメールは送れない

 

送れなければ返事は来ない

 

あるいは
仮に送る用事があって
たくさんのメールを送れたとしても
それで
たくさんの返事をもらったとしても
寂しくないかっていうと
やっぱり
寂しいと思う

 

つまりね
定年になって
独りになったら
どうあがいても寂しくなるわけ

 

どうあがいても
なんだ

 

基本的には寂しいものなわけ

 

でもね
寂しいからって
寂しい寂しいって一日中思っているのは
やめたいなって思う

 

そう思う

 

(3)僕の定年

 

(僕の定年はどうだったか)

 

僕の場合は
すごく恵まれていて
こうして教室のみんなは相手にしてくれて
黙って僕の話を聞いてくれる

 

やめた会社の人たちとも
時々飲んだりできて
これ以上ないくらい恵まれているんだけど
でも基本的には
やっぱり寂しいことに
違いはない

 

だからって
寂しいからって
みんなに会うために
詩の教室を毎日開くわけには
いかない

 

毎日開いたら
だれも来てくれなくなる

 

普段はどうしているかっていうと
カミさん以外とは話すことなんてないわけ

 

夕方になったらカミさんの買い物について行って
スーパーマーケットで
カートを押してカミさんの後を歩くだけが
お出かけなわけ

 

つまりね
カミさんがいなければ
だれとも接することがない

 

恵まれていることはわかるんだけど
でも
根本のところはやっぱり
世間と離れているし
老人って寂しい存在なわけ

 

これって
どうしようもない

 

(4)老人と詩

 

以前に
詩はお金にならない
生活の役には立たないって
言ったことがある

 

詩集を出せば何十万円と出て行くけど
詩を書いてもお金は入ってこない

 

でも
年をとって
寂しくなって

 

詩って
せめてこんなときの役には立たないんだろうかって
考えてみる

 

つまりね
避けがたく寂しいときに
いくらメールをしていても
寂しいのはいやされないと思う

 

それはどうしてかっていうとね

 

これは一つの考え方であるけれども
つまり
自分に宛ててのメールをしていないからなんだと
思うわけ

 

いくら人にメールをしても
し終わったら独りになる

 

必要なのは
四六時中
自分にメールをしていることなんじゃないか

 

わかっていると思うけど
これは
本当に自分にメールをしろって言ってるんじゃないよ

 

くりかえすと
自分にメールすることが大切で
それって
言い換えれば
「詩を書く」ことなんじやないか
って思うわけ

 

年をとれば寂しい
もちろん寂しい
すさまじく寂しい
それに違いはないんだけど

 

その寂しさを
見つめて言葉にして
それをなんとか言葉にして
言葉にしたものを
自分にメールをするようにして
生きてゆく

 

それが詩を書くっていうことなんじゃないかと
思うわけ

 

(客観視できる)

 

そうすれば少なくとも
客観視できる

 

自分のことが少しはわかる

 

寂しいのは当たり前だ
それがなんだって強がりを言える

 

寂しさにあてて
メールを書く

 

自分の寂しさの目を見据える

 

少なくとも
寂しくてキョロキョロしているような
みっともないところからは
出られる

 

自分を見ようとすること
自分だけの言葉を発することができることって
ちょっとはマシな
老人でいられるんじゃないかなって
思う

 

どんなに友人を作っても
友人の数には限りがある

 

でも
見つめる自分には限りがない

 

探す言葉には限りがない

 

生き生きとしている時代の生活費には
詩は役に立たない

 

でも
稼がなくなったあとで
少しは役に立ってくれている

 

誰でもが小説家になれるわけではない
 

でも
誰でも詩を書くことはできる

 

そのわけは
そんなところにあるんじゃないかなって
思うわけ

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