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2019年9月の話(池袋「こじんまりとした詩の教室」)
 
​言葉は息をしている ー 川崎洋さんの詩について
​    
​松下育男

 

今日の話をする前に

今回提出されたみんなの詩を読んでいるときに

ちょっと感じたことを話します

 

それぞれ

力を込めた詩を

送ってきてくれているんですけど

その中に

社会的な問題を取上げた詩がいくつかあって

そういう詩って

詩の教室ではあまりみられない

ということもあって

少し

考えさせられました

 

ひとつの詩は

太平洋戦争での戦没学生のことを書いた詩でした

 

もう一つの詩は

昨今の日韓関係について言及している

詩でした

 

この二つの問題は

言うまでもなく繋がっていて

つまりは

もとをたどれば

日本のかつての軍国主義が

発端となっているわけです

 

この会は詩の教室ですから

言葉をどのように人の胸に届かせるか

ということを学ぶ場所であって

日韓関係について

意見を戦わせる場所ではありません

 

あるいは軍国主義的な心が

どのように私たちの中に残っているか

残っていないかを

検証する場所ではありません

 

日本と韓国の

どちらに非があるかを

判定する場所ではありません

 

ただ

詩を書くにあたって

これを書こうという思いの根源に

社会的な

あるいは

政治的なテーマが入ってくることは

日々この社会で生活していれば

当然ありうるだろうし

詩の中に政治的な意見が入ってきても

決して不自然なことではないわけです

 

詩を書いている人は

いやおうなくこの国に生きているわけですし

生きている限り

空気を吸わなければならないのと同じように

この社会の

真っ只中に

いることになっているわけです

 

ぼくなんか

もう年金生活者ですから

朝や昼間に

食事をしながらテレビを観ることもあるんです

 

そうすると最近は

朝から晩までテレビでは

日韓関係のことをやっており

多くの日本人はそれを見て

日々の感情を揺さぶられているわけです

 

先の戦争中に

国の考え方の向かう方向へ従ってしまって

(従わざるをえなくて)

軍国主義に加担してしまった文学者を責めるところから

戦後の文学が始まったといっても

言い過ぎではありません

 

今の日本人は

あの頃ほど考えが浅くはないと信じていたいし

一度痛い目にあって反省しているのだから

もう

国の言っていることを盲信して

過ちを犯すことはないだろうと

どこかわれわれは(と括ってしまっていいのか)過信をしているのではなければいいな

というのが

ぼくの最近の感じ方です

 

僕自身が

テレビのコメンテーターの言葉に

反感を抱いたり

強く同意をしたり

腹を立てたり

気がつけば自分が聞きたくない意見の番組を

故意に見ないようにしている

そんな

恐ろしい状態になっています

 

そういう自分の感じかたや態度の浅ましさに

気づくことがあります

 

ひとつの出来事を報道するのに

これほど映像や通信や教育が進んでいるにもかかわらず

その出来事について

正反対の伝えかたが

毎日のように

テレビからも

新聞からも

報道され

私たちに伝えられてきます

 

報道の自由とか

ものの見方の多様性とか

言えば一見かっこいいけど

じつは何も伝えていないことと

変わりがないわけです

 

あるいは

知れば知るほど混乱をさせるような

伝えかたではあるわけです

 

僕は一概に

情報を発信する側を

責めようとは思いません

 

というのも

出来事や事件の

真の姿を見極める

言葉で言うことは簡単ですけど

そんなことはもしかしたら不可能なのではないかとも

思うからなのです

 

いったい事象の真の姿とはなんだろう

 

すべての出来事は

その時の

その人の

感じ方

伝えかたによって

なんとでも解釈できる

ということの恐ろしさを

これでもかというほどに

知らされています

 

それは意識的にも

無意識にもなされているわけです

 

昨今の日韓関係に起きていることは

詩を書く人間としても

無視のできないことです

 

双方が投げ合う

言葉の過激さ

言葉のあやうさ

言葉の危険性

言葉の理解度の浅さ

言葉の解釈の勝手さ

言葉のいかがわしさ

 

あらゆる言葉の姿が

日々

私たちの目の前を通りすぎてゆきます

 

そしてなによりも

自分の考えかたや感じ方の

あやうさ

危険性

いかがわしさも

残酷に示されているのだと思います

 

言葉で思いを伝えようとしている

詩人である我々が

今 世の中に流れている言葉の

いかがわしさや

ねじまがった姿に

できうる限り敏感であっていたい

 

そう思います

 

今の自分は

戦前の日本人とは違っているだろうか

 

もし違っているものが

かすかにでもあるのなら

自身の感じかたをも疑ってかかる必要がある

ということを

今の私たちは少なからず知っていることなのかなと

思うのです

 

社会的なことを書いた詩も

もちろん

言葉で書かれています

 

言葉は私たちの外に

あるわけではない

 

言葉も

戦争や軍国主義の

血しぶきを浴びてきていますし

今だって

浴びているのだと思います

 

政治的な理念を共有するために

この会があるわけではなりません

 

だから

おのおのが

信じるところに従えばよいのだと思います

 

ただ

国と国とによって交わされる口汚い言葉を

その姿を

しっかりと見極めることを

して行きたいと思います

 

ほかでもない

その言葉で

私たちは詩を

かけがえのない詩を書いているのですから

 

 

(今日の話)

 

ということで

今日の話に移ります

 

先月は茨木のり子さんの話で

今月は川崎洋さんの話です

 

今さら言うまでもなく

茨木さんと川崎さんは

1953年に詩の雑誌「櫂」を創刊しています

その後「櫂」には

谷川俊太郎や

大岡信等が参加しました

 

すごい同人誌だなと

メンバーを見ているだけで

ため息が出てしまう

 

この雑誌のメンバーの活動は

単に詩を書きます

ということだけではなくて

ラジオドラマを書いたり

批評を書いたり

連詩をしたり

絵本を書いたり

ということで

才能を小さく留めてはおかなかった

才能をいろんな方面に解き放った

 

というか

さらに広げるだけの才能を持っていた

言えるのだと思います

 

茨木さんも

川崎さんも

選ばれた詩人でした

 

詩を書くことしかできなくて

おどおどして生きている僕のような詩人とは

違った

特別に選ばれた詩人でした

 

(特別な詩人)

 

特別なのは

詩以外の活動も立派に成し遂げたから

ということだけではなくて

もちろん詩それ自体が特別だったからなわけで

 

ではどういった詩を書いてきたのか

さっそく

川崎さんの詩を一篇読んでみます

 

あまりに有名な詩ですけど

「はくちょう」を読んでみます

 

 

 はくちょう 川崎洋

 

 はねが ぬれるよ はくちょう

 みつめれば

 くだかれそうになりながら

 かすかに はねのおとが

 

 ゆめにぬれるよ はくちょう

 たれのゆめに みられている?

 

 そして みちてきては したたりおち

 そのかげ が はねにさしこむように

 さまざま はなしかけてくる ほし

 

 かげは あおいそらに うつると

 しろい いろになる?

 

 うまれたときから ひみつをしっている

 はくちょう は やがて

 ひかり の もようのなかに

 におう あさひの そむ なかに

 そらへ

 

 すでに かたち が あたえられ

 それは

 はじらい のために しろい はくちょう

 もうすこしで

 しきさい に なってしまいそうで

 

 はくちょうよ

 

 ☆

 

どうです

弱々しさ

たおやかさ

受け止めるすがた

透明感

しっとり感

そんなものがいっぱい入っていて

きらきらした詩になっています

 

この詩から感じることを四つ見てみます

 

(一つ目)

 

一つ目に気がつくのが

一文字空けを多用していることです

 

ぜんぶひらがなで書いているから

文字と文字の間に空間をつくったほうが読みやすい

ということもあると思いますが

それだけではなく

読む人に

さっと読み過ぎてしまわれないように

言葉を

その都度立ち止まって

ひとつひとつ読んでもらいたい

そんな意味も含まれているのだと思います

 

とうぜんそれが

独特なリズムや調べを

作りあげています

 

この雑貘とした世界とは

違うところへ連れていってくれるわけです

 

(二つ目)

 

二つ目に感じるのが

動詞の輝きです

 

詩の美しさは

名詞よりも動詞で決まってくることが

多くあるわけです

 

ちなみに

どんな動詞がつかわれているか

並べてみます

 

 ぬれる

 みつめる

 くだかれる

 みられる

 みちる

 したたりおちる

 さしこむ

 はなしかける

 うつる

 なる

 しっている

 におう

 そむ

 あたえられる

 

こうして動詞を並べただけで

「ぬれる」という題をつければ

きれいな一篇の詩ができあがってしまいます

 

この動詞の編み目の向こうに

はくちょうが見える

そういう仕組みになっています

 

こうして並べて気がつくのは

受け身の動詞がいくつかあることです

 

自分から身を動かすのではなくて

与えられた動きを受け止めることの

ひそやかさを感じます

 

このひそやかさが

詩に上品さをもたらしているのだと思います

 

(呼びかけのやさしさ、親しさ)

 

三つ目に感じたのが

呼びかけの優しさ、したしさです

 

書き出しの

「はねが ぬれるよ」の「よ」には

詩の呼吸の湿り気さえ感じます

 

そうか

この詩は私に

語りかけるように書かれているんだな

読み始めてすぐに

わかる仕組みになっています

 

読み手を受け入れてくれる詩なのだよという

小さな宣言であるわけです

 

詩の中にはいくつか

「?」が出てきますが

このやさしい問いかけにも

同じように呼びかけの意味が含まれています

 

通常

人から受ける質問って

職場なんかでも

ああすぐに答えなきゃいけないという圧迫感に

苦しくなるんですけど

この詩に出てくる質問は

べつに答えなくてもいいんだよ

というやさしい質問です

 

あなたがこの詩を読んでくれているんだ

ということを

詩が確認するための

肩に置かれた手のひらでもあるからです

 

もちろんこの詩は傑作中の傑作で

僕は初めてこれを読んだ時に

ぶったまげました

 

言葉って

こんなことまでやってのけることができるんだ

びっくりもし

感動もした

 

(四つ目)

 

それで

四つ目に感じたのは

この詩は

とんでもなく美しくできているんですけど

書かれているのは

どこか

「はくちょう」そのものの美しさではないな

ということです

 

ほんもののはくちょうを

いったん破片に砕いて

その破片を組み立て直したあとの

はくちょう

 

そんな感じがします

 

ガラス細工の白鳥に近いかも知れない

 

ガラス細工だから

粉々に割れることがある

 

割れた破片が光を反射している

 

その破片

というのが

「言葉」のひとつひとつにあたる

 

つまり

言葉ひとつひとつを磨いて

磨いたあとに組み立てて

はくちょうにしている

 

僕が言いたいのは

川崎さんって

この詩で描きたかったのは

はくちょうではなくて

はくちょうの姿だけをかりて

「言葉」を書きたかったのだな

ということです

 

言葉で遊んでいる

 

そんな感じがする

 

透明で小さな言葉の積み木で

詩を作っている

 

積み木である以上

それぞれの破片が意味をもっていては

こまるわけです

 

だから全部ひらがなで

できている

 

つまり

この詩に胸を打たれるのは

書かれているはくちょう

というよりも

言葉それ自体に対してなのです

 

(茨木さんとの違い)

 

これって

すごく面白いなと思うのは

茨木のり子さんは

言葉よりも前に

書くべき内容がしっかりとある詩だった

 

でも川崎さんの場合は

言葉よりも前にはなにもない

 

書きたいのは内容ではなくて

言葉そのものだから

 

そんな感じがします

 

(言葉にこだわる)

 

ということで

川崎さんは

なによりも言葉

世界そのものを描くよりも

言葉に向かい合っていた

 

その向かい合いかたは

この「はくちょう」のように

世界をきれいに染め上げるような

向かいかただけではない

 

もっと多様性に飛んでいました

 

たとえば

「悪態採録控」という

悪口を集めた詩があります

 

これは

美しい言葉を集めるのではなくて

口汚い言葉ばかりを集めて

詩にしている

 

この詩は

ここでは全部は読みませんので

自分で詩集で読んでみてください

 

抜粋をちょっと読んでみますと

こんな感じです

 

 たわけめ 

 くそったればばあめ

 女のがき

 おたふく

 馬鹿野郎

 

これって「はくちょう」を書いた詩人の作品とは

とても思えない

 

えらく違うように見える

 

でも

言葉に向かい合って

言葉を集めて

詩の中に置いている

ということでは

「はくちょう」と同じなんです

 

今日の話の初めのところで言った

韓国と日本の言葉の応酬を聞いたら

川崎さんはいったい

どんな詩を書くだろうとか

つい想像してしまいます

 

(方言)

 

もうひとつ別のを読んで見ます

 

 

 「祝詞」 川崎洋

 

 おめでと

 おめでとがんす

 おめでとがす

 おめでどござりすた

 おめでとうがんした

 おめでとうごぜんす

 おめでてえねえ

 おめでとうごいす

 おめでとござんす

 おめでとござんした

 めでたかったね

 おめでとございます

 おめでとうさん

 おめでとうはんです

 おめでとうごだえんす

 おめでたかことで

 おめでとござんする

 めでとうがあったじゃねか

 

 ☆

 

という詩で

これはなんだろう

「おめでとう」をさまざな言いかたで言い換えている

並べている

方言もあるし

時代的に古い言い方もある

馴れ馴れしいいいかたや

まわりくどい言い方もあります

 

だから

さっきの感じ方でいうと

川崎さんがこういう詩を書くっていうのは

すごく分ります

 

言葉と向かい合っているから

美しい言葉とも向き合うし

悪口とも向き合うし

方言や言い換えとも向き合います

 

この詩を見ていると

僕なんか

どこか

言葉が感じているさみしさが

ひしひしと伝わってくる

 

それ自身では

なにものでもない

ひらがな

というものの

よりどころのなさ

もたれかかることのできない心細さ

 

組み合わさることでしか

意味を持つことのできない言葉って

どこまで悲しいものなんだろうと

感じてしまいます

 

そういう意味で

川崎さんも

言葉とじかに

これだけ向き合っているんだから

言葉の気持ちを

だれよりもわかっていたんだと思います

 

(鉛の塀)

 

そんなことを考えていたら

思い出したのが

ひとつの詩です

 

「鉛の塀」という

これも有名な詩です

 

 

 鉛の塀      川崎洋

 

 言葉は

 言葉に生まれてこなければよかった

 と

 言葉で思っている

 そそり立つ鉛の塀に生まれたかった

 と思っている

 そして

 そのあとで

 言葉でない溜息を一つする

 

 

書いてあることは

とてもわかりやすい

 

擬人法の詩です

 

言葉を擬人化している

 

擬人化

って

詩を書く人ならだれでもつかったことのある手法で

あるわけですけど

それだけに

ありふれた擬人は

失敗するから

やめたほうがいいと思います

 

擬人化しただけで

この世界とは違ったところへ行ってしまえるから

もうそれで詩ができ上がってしまったように

勘違いをしてしまう

 

擬人化するなら

ありふれていない

突出した擬人を

目指すべきです

 

そうでないなら

やめたほうがいい

 

この詩の擬人化は

言うまでもなく

お見事な擬人化

 

恐ろしいほど胸にぐっとくる擬人化です

 

人に擬された「言葉」の呼吸まで

聴こえてきそうに書いてある

 

決して明るい詩ではなくて

自己否定の詩

ちょっと太宰治的でもあります

 

面白いのは

四行目の

言葉が言葉で思っている

というところ

 

それからこの詩には比喩が含まれています

 

五行目の

「そそり立つ鉛の塀に生まれたかった」

というのは

書かれているそのままに鉛の塀に生まれたかった

ということであるとともに

「鉛の塀のように静かに黙っているもので自分はありたいのだ」

という意味でもあります

 

つまりここには

「鉛の塀のように」という

分りやすい直喩が

しまい込まれています

 

そして最後の行で

読んでいる人が驚きます

 

何に驚いたかを言葉で説明することは難しい

 

だから

この詩を読んだ人も

最後に

「言葉でない溜息を一つする」

ということになるわけです

 

(むき出しの言葉)

 

この詩に出てくるのは

むき出しの言葉です

それ自身ではなんの意味も持たない言葉です

たよりなげな言葉です

 

言葉がなければ

この世界が構築できない

ということは

わかっています

 

言葉がなければ

気持ちを解釈したり

表明することもできないことも

わかっています

 

でも

言葉自身のことを

僕らは考えてあげたことなんて

あまりない

 

勝手につかって

つかいっきりの

この

言葉というものを

 

何かを表すための言葉として

ではなくて

言葉それ自体を

正面から受けとめて

向かい合えるのは

「詩」

だけなのかもしれない

 

川崎さんはそんなことを思って

詩を書いていたのではないかな

感じたわけです。

 

 

この「鉛の塀」という詩は

僕は昔から好きで

ことあるごとに

思い出しています

 

(「初心者のための詩の書き方」)

 

ちなみに僕は

言葉や詩についての詩を

このところ

「初心者のための詩の書き方」

という連作詩として

ずっと書いているんですけど

 

思い返してみれば

それを書き始めるにあたって

たぶん

川崎洋さんのこの「鉛の塀」という短い詩が

あったのだと思います

 

ぼくの長い連作詩の

元をたどれば

川崎さんのこの詩が源としてあった

そんな気がします

 

(言葉の機能をつきつめる)

 

繰り返しますけど

川崎さんの詩というのは

もちろんいろんな詩があるんだけど

ひとことでまとめるなら

「言葉の命と機能を突き詰める」ことに

徹底して向き合っていた

そういう詩なのだと思います

 

だから

方言の詩であったり

言葉遊びの詩であったり

言葉と言葉の距離を遠ざけてみたり

さまざまなことをして遊んでいた

 

これも繰り返しになりますけど

茨木さんの詩は

言葉よりも先に

書かれる内容がある

 

それに対して

川崎さんの詩は

それとは反対に

書かれる内容より先に

言葉がむき出しで顔を出しています

 

どちらがいいとか

悪いとかの

問題ではない

 

両方ともありえる

 

たかが言葉だけど

一生格闘しても悔いはないと

川崎さんは思ったんだろうと思います

 

詩を書くんなら

言葉を知りつくしたい

 

言葉がなにをあらわそうとしているのか

辞書に書いてある意味以上に

どんな可能性を持っているのか

言葉にできることは

まだまだあるはずだと信じること

 

詩を書いているのだから

自分ひとりだけの言語で詩を書きたい

自分だけの美しい言語のようなものを

作り上げたい

 

僕らが生きているのだから

僕らがつかう言葉も生きている

 

言葉も息をしている

 

言葉は個別に

それぞれの大切な命を

けなげに抱えて生きている

 

それを思い出しながら

一篇の詩を書き上げようよ

ということです

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