

2018年9月の話
忘れさられることの尊さ
(さくらももこ)
松下育男
で
今日は「ちびまるこ」の話から始めようと思います。
それでいくつか考えたこと、感じたことがあったから。
先日「ちびまるこ」の作者、漫画家のさくらももこさんが亡くなりました。
「ちびまるこ」って漫画本自体は読んだことがないんだけど
テレビのアニメはたまに観ることがあった。
日曜日の夜でしょ。
だから僕はそんなにこの漫画家について詳しいわけではないけど
でもあのアニメを観ていると
やっぱり考えさせられることがたくさんある
一つは採り上げている題材ね
小学校の教室の中だったり、家の中のこと、友だちのことがほとんどで
だれもが経験したことのある出来事が描かれている
そこがね、純粋にすごいなと思うわけ
だれもが経験したことのあることを
だれもが感じるように描いて
だれもが思い出すように思い出して
それがどうして独自の作品になるんだろうっていうことね
もちろん絵のタッチが寄与しているところもあるんだろうけど
それだけじゃない
特別な体験をしたわけでもなく
人とは違ったことを長年研究してきたわけでもない
人と同じような人生を送ってきたそのことで
どうして作品として際立つことができるか
っていうことを考えるいいきっかけではあるわけね
つまりね、人が知らないことを知っているわけではなく
人が知っていることを知っている
そのことがどうして優れた作品になるんだろうっていうことね
なんでもないことの中に感動があるっていうのは簡単なんだけど
でもじゃあ、
何でもないことの中ってどこだろうって思うわけね
だれでもが感じることを書く
そのことが傑作になりうるって
そのからくりを知っていたのかなって考えて
いや知っていたのではなくて
感じていただけなのかも知れない
書いたらそうなってしまうだけなのかもしれない
だって
そのからくりを説明できたら
だれもがさくらももこになれるわけで
でも現実にはそうじゃない、他の人はさくらももこにはなれない
さくらももこになれない人で世の中あふれ返っている
モノを作るって
説明できないところに一番肝心なものがる
悲しいかな、そんな気がする
さくらももこに「富士山」という本があって
でも今どき
「富士山」なんて題で、だれが本を出すだろうって思うわけ
「富士山」なんて、これほど手あかにまみれた言葉はないわけで
でもさくらももこが使うと、いい題だなと感じてしまう
決していい加減にしてくれよという気持ちにはならない
これまでの「富士山」とは違った「富士山」がこの世にひとつ与えられた
そんな気になるのはなぜだろうって思うわけ
単に「個性」っていうことでは片づけられないもの
創作のつらい秘密がそこにはたしかにある
「つらい」っていうのは
さくらももこがつらいって言っているわけではなくて
さくらももこになれない僕らがつらいって言っているわけね
じゃあ
うまれつきさくらももこでなかった僕らが
モノを作ってゆく意味はあるのかっていうことだけど
もちろんあると思う
つまりね
いくら「ちびまるこ」がすごいなと感じていたって
「ちびまるこ」だけを読んで一生を過ごすわけにはいかない
創作って
一面では才能のあるなしは決定的なものを示してくるけど
でもそれだけでは説明できないもの
そんなに単純には割り切れないものがある
それとは別に、不器用でも
真摯に学んでいくところからもたどり着けるものがある
それはたぶんさくらももこには書けなくて
さくらももこにはなれなかった人が書くべきものなんじゃないかと思うわけ
☆
で
さくらももこさんが亡くなってもうひとつ考えたことがあった
何かって言うとね
ニュースでそのことを報じているときに何回か耳にしたのが
「さくらさんは亡くなったけど
さくらさんの作品は永遠に生き続けます」っていう言葉ね。
これって、才能がある人がなくなったりとか、
何かを作った人がなくなるとよく言われるんだけど
それで言っている事自体は正しいんだけど
ぼくが考えたって言うのは
ものを作る、詩を作るひとつの目的というか
なぜ詩を書くかって言うことの理由のひとつに
自分が死んでも自分の作ったものは残って欲しいという気持ちがあるのかな
っていうことなの
それってどこか
自分が死んでも
自分の血を受け継いだ子供が生きていれば満足するっていう感覚と
同じなのかなって
いう疑問にもつながると思うわけ
僕の場合はどうかっていうと
別に書いた詩が
その後ずっとだれかに読み続けてもらいたいっていう気持ちは
ないっていうと嘘になるかも知れないけど
すごく弱い
というか薄いわけ
それよりも
詩を書く
そのことの、その時の喜びのほうが勝るわけ
つまり自分の詩が
自分が亡くなった後で忘れ去られてもかまわないという気持ちがある
たぶんそれって僕だけのことじゃなくって
たいていの詩を書く人はおんなじなんじゃないかって思う
詩を後世に残すために書いているなんていう人なんてそんなにいない
もっと今
何をむしょうに書きたいのかっていうことに
関心は向いているのかなって思う
たぶん作者が死んでしまったときに
その作品と作者の関係って
一気になくなってしまうわけではなくても
徐々に薄まってゆくものなんじゃないかな
だから、
永遠に読まれ続けるでしょうって言う言葉は
永遠かどうかはわからないけど
多分本当だろうけど
さくらももこさんと
その作品は
ほとんど関係のない話なんだろうなと思うわけ
だって
作品が残るから作者も残るんだなんて考えていたら
僕の両親はどうなんだって話になる
別に有名でもなくて
とくに後世に残す何を作ったわけでもない
でも
たぶんさくらももこさんも
僕の両親も
生存の価値ということで言えば
なんら違いがないと思うわけね
だからさくらさんの作品が残って
それを享受する人がいるっていうことは素敵なことだけど
それとさくらさんという人とは
別の問題なのかなと
思いたい
☆
話はちょっと変わるけど、
今さらっていう話だけど
人って、忘れ去られてゆくものなんだなって実感をするわけ
例えば今話した僕のオヤジもおふくろももうだいぶ前に亡くなっていて
たいていの人は僕の親のことなんて思い出しもしない
でも考えてみれば、ついこないだまでこの世の構成物のひとつだった、この世の一部であった僕の父と母
ついこないだまで商店街を歩いていた僕の父と母がいなくなって
この世にいたということを、僕以外だれも覚えていない
そういう世の中が来てしまったって
僕にとってはすごい驚きなわけ
この世は依然としてあるのに
もうだれも僕の父親と母親が実際にここにかつては生きていたんだって思い出さないっていうことは
なんだかびっくりすることでもあるわけ
なんだかもともとどこにも無かったものと
違わないことのような気がするわけ
☆
でも、僕は、僕の中ではオヤジとお袋のことを今でも
しょっちゅう思い出している
別にそうしなければいけないってことじゃないんだけど
自然と思い出す
大切なのは
僕が今でも思い出すんだから
そうしている間はオヤジもお袋も
命はなくなってしまったけど
この世から忘れ去られてしまっているわけではない
っていうこと
でも
そのうち僕が亡くなったら
もう僕のオヤジやお袋のことを思い出す人なんて
ホントにどこにもいなくなるだろうと思うわけね
それってすごく恐ろしい
恐ろしいと言ったところでどうにもならないんだけど
そのどうにもならないことが恐ろしい
僕がいなくなるっていうことよりも
僕が思い出している人を、もう思い出す人がいなくなるっていうことの方が
どうにもやり切れないわけね
それって
一般的な問題としてはホントに当たり前のことで
忘れ去られたからどうだっていう問題であって
粛々と忘れ去られてしまってもいいのかなとは思うわけです
忘れ去られる尊さというものが
命にはあるんだということは頭では分かる
でも
一般的ではなくて僕の個人的な問題としては
僕が死んだら
僕に思い出されていた人は
もうだれにも思い出されることはなくなるんだな
それってつらいなって
そんな気がするわけね
(後略)