

2019年7月の話(池袋「こじんまりとした詩の教室」)
貧富と詩作
松下育男
今日は「貧富と詩作」という話をしたいと思います
最近の僕のフェイスブックを読んでくれている人は
気がついていると思うんですけど
何回か続けて
好川誠一という人の詩を引用して文章を書いています
好川誠一っていうのは
昔
一九五十年代に出ていた「ロシナンテ」という詩誌の
同人だった人です
その雑誌には石原吉郎もいた
詩誌「ロシナンテ」がどうやってできたかというと
当時の商業誌(「文章倶楽部」)に投稿をしていた人たちが集まって
出していた詩誌なわけ
好川さんも石原さんも投稿仲間で
それで雑誌をやろうかということで集まった
詩を書く人間がお互いに知りあうことって
普通はないから
こうして
商業雑誌の投稿欄でお互いの才能を知って
一緒に同人雑誌をやろうかという話になる道筋っていうのは
すごく自然なことだった
ありがちなことだった
そんなわけで
投稿している人がこの「ロシナンテ」に何人も入ってきて
結構多人数の同人誌になったようです
同人は多数いたけれども
好川と石原は雑誌の中心的な存在だった
で
僕は昔
石原吉郎のことをもっと知りたいと思って
図書館で調べていて
この好川さんのことを知った
妙なことを言うようだけど
で
これもこないだフェイスブックに書いたんだけど
ぼくは好川の詩に
特別強く惹かれているわけではないんです
いい詩だな
という作品はたくさん書いている
でも
これは好川さんだけにしか書けないとか
強烈な個性にこちらが打ちのめされる
という感じでもない
やっぱり石原吉郎の残した詩の方が
際立っている
でもね
詩って
特に際立っているものだけを読みたいというものでもない
石原の後ろで詩を書いている人の詩にも
僕らを鼓舞し
感銘させてくれるものがある
それは間違いないわけ
ちょっといい詩だな
というものでも
その「ちょっと」が読む人の心に沁みて
その人の中にしっかり残る
ということがある
自分なんかとても書けないという特別な詩人の詩を読むのも
読書の醍醐味ではあるけれども
そうではなくて
もしかしたらこの人の書く詩は
自分にも手が届きそうだな
というもののほうが
深く抱きしめることができる
そういうこともある
好川誠一っていうのは
ある意味みんなのことでもあり
僕のことでもある
そう感じると
好川がその生涯で必死になって作りあげた詩に
すごく愛着を感じ始めてしまうし
おろそかには読めなくなる
大切に読んでいこうと思う
僕は好川誠一の生涯を
事細かく知っているわけではないけれども
いくつかの評論を読んだところでは
貧しくて
生活に窮していた
家族を養うのも大変で
そんな中で詩を書いていた
おそらく詩は
好川にとっての生き甲斐であり
自分が生きた証にしたいと思っていただろうし
持っている才能のすべてを
惜しみなくそそいだものなのだろうと思う
才能の大きさとかね
才能を利用する器用さとかは
人それぞれなわけで
それは個人としてはいかんともしがたい
才能のない人は
才能のない人だし
不器用な人は不器用な人
残酷だけど
人それぞれに差異があることは
認めざるをえない
でもね
詩っていうのはそれだけでは
推し量れないものがある
もっている才能や能力を
どれだけ詩に使い果たそうとしたか
その覚悟が
詩を読んでいると見えてくることがある
へたくそでも
不器用でも
詩作品の中に
全力で書いているその姿が見えるなら
その姿そのものが
詩作品を通して
僕らの胸をうつということがある
好川誠一は
もちろん才能豊かな詩人ではあったけれども
それに加えて
生涯を全力で詩に捧げたという姿が
きちんと見えてくる
(貧富と詩作)
例えば今だって
詩を一生懸命書いている人の中には
お金に余裕がある人と
そうでなく
かつかつな生活の中で苦労している人がいる
同じ程度の作品を書いているならね
いやな言い方だけど
有名な出版社から何冊も立派な装丁の詩集を出している人の方が
地味に私家版の詩集をたまに出す人よりも
目立つ
目立つことは目立つし
人に知られることも多くなる
それは事実
どうしようもない事実
でね
僕はなにが言いたいんだろうと
ここで立ち止まるわけ
そんなとき
裕福でなくても
人にあまり知られなくても
しっかりとした詩を書いていることが大事なんだって
他人事のように
ここで言うことは簡単
そんなわかりきったことを言うのはすごく簡単
でもそれでは
なんにも言っていないことと同じになる
(ひとりの詩人)
生まれとか
環境とかって
人それぞれなわけで
それを言いだしたら先が続かなくなる
で
僕がこんなときに
思い出す一人の詩人がいる
仮に名前をSさんということにします
詩を書く人って
学生の時ならまだしも
社会人になると
詩と生活と
どちらにどれだけ比重をかけた人生を送るか
っていう判断を迫られることがある
社会に出るときに
どんな仕事につくか
という判断の時点で
その選択を迫られる
その時だけではなくて
生きていく限り
詩にどれほどの時間とエネルギーを費やすか
ということに
日々
判断を迫られながら生きてゆくことになる
僕もそうだったし
Sさんもそうだった
僕とSさんの違いっていうのは
僕は詩人としての人生よりも
生活人としてのレールに乗った
でも
Sさんはそうではなかった
僕は大きな会社の経理を40年以上もやって
その合間に
詩を書いたり
いやになってやめたりして
生涯をすごした
つまり詩は
たいてい生活の後ろに隠れていた
安全な場所で書いていた
とはいうものの
人一人
人生をやってゆくというのは
そんなに容易なことじゃない
仕事をする
というのは
ドラマなんかでは職場でうろうろしているだけのように見えるけれども
あるいは
だれにでもできることのように見えるけれども
実際は
ドラマの中ほど気楽ではないし
胸が痛くなるようなことが
しょっちゅうある
だから
仕事を定年までやりとげられたのも
すごくラッキーだったと思う
二年前に会社を定年で辞めて
やっと詩に
全部の時間を費やせるようになった
でも
その時にはもう
僕は六十代後半になっていた
なんとも遅いなという感じ
しなやかな感性なんて
とても言えない年齢になってしまっていた
でも
Sさんは
僕とは違って
ずっと詩に重きを置いていた
惜しみなく時間と能力を詩に
費やしてきた
僕と
Sさんと
二人の詩人としての結果はね
言うまでもない
量も質も
見事な詩をSさんは残した
詩にもたれかかる覚悟は
ぼくよりもずっとあった
Sさんのたくさん書き残してきた詩を読んでみると
詩の中に
彼が過ごしてきた生活の様子が
しっかりと書かれている
どうどうと書いている
生活の中で
家族と
手作りの幸せを大事に取り囲んでいるような
その取り囲みかたを見せつけるような
詩を書いている
すごいなと
思いながら僕は読んでいる
僕は別にね
生活を詩に書けと
言っているわけではないのね
自分が選択した人生を
どうどうと生きているその姿
日々の
すべてのことを
詩の素材にしてしまう
詩に利用してしまうことのしたたかさと覚悟に
胸をうたれるわけ
詩にもたれかかる覚悟があったから
その覚悟が本物だったから
書けたんだと思う
生涯を悔いなく過ごすなら
自分の人生の中で
詩に
どれほどの時間と情熱を注いでいくかを
それぞれの人が決めなきゃならない
ただ
少なくとも人には
詩に傾けた人生
詩にもたれかかった人生というものを
送る自由があると思う
そこに
かけがえのないものがあると思う
そうやって多くのすぐれた詩を残した先人達が
すでにいる
人それぞれの人生の選択だから
僕が言えた義理ではないんですけど
そばにいる人がわかっていてくれて
自分が真にそれを選ぶ覚悟をもっているなら
その人の人生にとっては
詩が最も大切だと思うことは
決して妙な考え方ではない
詩を作ろうとする熱は
一生を後悔なく過ごす温かさを
与えてくれるものだろうと思う
お前はそんなふうに生きなかったじゃないか
って言われるかも知れないけど
だからこそわかったこともある
っていうことです
(国会図書館)
それから
最後にひとつお勧めの話です
今日の話の冒頭に出た好川誠一の詩を
僕がどこで読んだかというと
永田町にある国会図書館なんです
詩を読むって
普通
本屋で詩集を買ってくるとか
送られてきた同人誌を読むとか
そんな感じだと思う
それはそれで大切だと思うけど
本屋に置いてある詩集って
これまでに日本で書かれてきた詩の
ほんの一部でしかない
たまには
腰をあげて
昔の優れた詩を読みに行ったほうがいい
国会図書館は
そこに行けば
時代を超えてさまざまな詩を読むことができる
詩集にも載らずに
詩の雑誌の片隅に載っただけの
か弱い詩も
いくらでも読むことが出来る
歴史を超えて
読みつがれている詩を読んでいるだけではなくて
時代からは消えてしまったけれども
小さな息をし続けている昔の詩の
その息を聴きに行くことも
詩を読むものにとっては
ひとつの幸せになるだろうと思う
詩って
だれでもが読む能力を持っているわけではないけど
幸いにもあなたたちには
そのような能力がある
ある休日の朝に
とくにその日に予定がないという時には
国会図書館に行って
ひがな一日
昔の
自分のように生きた人の
詩を読んでいるのもいいと思う
PC画面の中には
さまざまな詩人が
僕らに読まれるのを待っています