

2017年7月の話
ロシナンテについて
松下育男
今日話すのは「ロシナンテ」。そこにおられるKさんは石原吉郎が好きで、ロシナンテの話を聞きたいといって今日わざわざ来てくれたんだけど、僕としてはそれほど深い話をするつもりはなくて、結果、申し訳ないことになるかもしれない。30分から45分位話をしたいと思います。「ロシナンテ」って知っている人います?最近知りました?そう。「ロシナンテ」そのものは「ドン・キホーテ」に出てくる馬ですね。だから、僕も「ドン・キホーテ」を読んだことないからわからないんだけれども、そんなサラブレッドみたいな颯爽とした馬じゃなくって、やせ細って大して役に立たない馬っていうかな、たぶんそういうのをなぞらえて自分たちの詩の雑誌につけたっていう感じ。役立たずだけど熱いものを持っている、そういう連中なんだよっていう感じなのかなって勝手に思っています。
それで、僕も石原吉郎の詩が好きで、ずいぶん読んできたんだけど、別に宣伝じゃないけど僕のフェイスブックのずっと奥を見てもらえば石原吉郎の100編かなんか解説していると思う。
たぶん「ロシナンテ」っていうのは詩誌の名付け親は石原吉郎。なんでかっていうと、彼、詩集がね、「サンチョ・パンサの帰郷」、そういう有名なのがあって、「サンチョ・パンサ」もまさに「ドン・キホーテ」に出てくるでしょ。「ドン・キホーテ」って、かっこよくないけど、風車に向かって突進してゆくような、馬鹿な男だけどっていうような、自虐的な、才能をうまく表せないものを持っている。
今日話すのは、勝野睦人。勝野睦人を知ったのは、石原吉郎が昔、同人誌をやっていた、ではどういうのをやっていたのかなと思って見ていたら「ロシナンテ」というのがあって、では「ロシナンテ」にどんな人がいるのかなと思って、そこで勝野睦人にたどり着いた。
「ロシナンテ」って何か。事実からまず見ていきましょう。1955年に創刊されて、1959年に終わっている。たった4年間です。短い雑誌ですよね。今の雑誌って結構長いっていうか、もう1年に1冊しか出さないというのなんか、それで長くなっちゃう。
それから、石原吉郎は1915年に生まれています。大正4年ですか。1945年に戦争が終わった時に、当時のソ連に抑留されて1953年までラーゲリでつらい体験をしていた。その当時のことが、最初の詩集にも書かれている。その当時の実体験というものが、この人の思想を深めたっていうのはまあ間違いないだろうと思うんだけど、それと、戦後急に詩を書き始めた時のレトリックとかがどういう風に結びつくのかっていうのがひとつの謎でね。Kさん、戦前っていうのは石原吉郎は詩を書いていたんですか。あんまり聞いたことないですね。「帰ってきて、風立ちぬを読んで、日本語の世界に戻ってきたって言って、書き出したんです」。そうですか。
というのは、1955年に「ロシナンテ」を創刊しているでしょ。1953年に日本に帰ってきているんですよね。そのときもう38歳。決して若くはない。それまで、俳句か短歌はやっていたのかもしれないけど、でも詩なんてやったこともないのが、ここへ来て急に華開いた。量も質も凄まじいわけです。凄まじい人が出てきたわけです。
この人が帰ってきて最初にやったことが投稿すること。「文章倶楽部」って雑誌に。これ知ってます?これ、今の「現代詩手帖」の前身。「現代詩手帖」の前身にまずは投稿した。無名だから。日本に帰ってきて、急に書き始めて、量も質もすごいのを書き出して、この当時の選者が谷川俊太郎。もう一人誰でしたっけ?「鮎川信夫」そう鮎川信夫。谷川俊太郎がもう絶賛して、特選で選ばれたのが「夜の招待」。もちろんほかにもたくさんいい詩があるんだけど、「夜の招待」。今配った紙の3ページ目にあります。3ページ目。読んでみましょうか。
夜の招待
窓のそとで ぴすとるが鳴って
かあてんへいっぺんに
火がつけられて
まちかまえた時間が やってくる
夜だ 連隊のように
せろふあんでふち取って
ふらんすは
すぺいんと和ぼくせよ
獅子はおのおの
尻尾をなめよ
私は にわかに寛大になり
もはやだれでもなくなった人と
手をとりあって
おうようなおとなの時間を
その手のあいだに かこみとる
ああ 動物園には
ちゃんと象がいるだろうよ
そのそばには
また象がいるだろうよ
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ
椅子はゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる
すごいでしょ。これ、僕も読んだときにね、びっくりしたよね。奇跡の一篇だね。ただ、ひとつひとつ説明すればできるのかもしれないけど、そういうこととは別に、隅々まですごいんだよね、これね。言葉の使い方から、断定すること、命令形の潔さ、すばらしさ。それからひらがなの使い方。今でこそ、こういうひらがなの使い方、いくらでもするけれども、当時はこんな使い方されたことがなかった。それから生き物に対する凭れこむような優しい感情、それから時間というもの、命に対峙する姿勢、大きなあきらめ。大きなあきらめってラーゲリの体験から来たんだと思う。死んだ人とのつながり方。これまさに詩っていうものそのもの。これはあとでゆっくり読んで下さい。
こういう人が初めた雑誌なんですけれども、石原吉郎は今、いくらでも読める。現代詩文庫にもあるし、本屋にもあるよね、今でも。「サンチョ・パンサの帰郷」のほかにも、全詩集ももちろん出ているし、「水準原点」とか。「水準原点」って、もっとカキっとした規律のある、ホントにこう断定した詩のすごさ、見事さ描いて、その後で「北條」とか「足利」とか日本的なもの、日本的な美に凭れかかったりして、どれもすごいよ。大体詩人ていうのはどこかで緩むんだけど石原吉郎って時代時代どれもすごいよ。すごいとしか言いようがない。
その「文章倶楽部」っていう雑誌に投稿していた時に、みんなで同人誌を作ろうよというふうに集まっていたのが「ロシナンテ」。だから,今日は詩の教室だけど、よくあるよね、投稿している仲間が集まるとか。だから、投稿している人が集まっているということは、雑誌に詩が採られた人が集まっているんだと思う。その中で、今日いっぱい話そうと思ったんだけど時間がないから端折って言うけど、勝野睦人っていう人のことを知りましたっていう話です。
どうして知ったかというと僕も同時代に知っていたわけではなくて。勝野が生まれたのが1936年。で、1957年に亡くなっている。小柳玲子さんがよく書いていて、もう有名な詩人だけど。亡くなったのは21歳かな。勝野睦人を何で知ったかっていうと、僕はだいぶ前、20年か30年か前に「詩学」で特集が組まれていて、そこに小柳さんや笹原さんとかがこの人について書いていた。勝野睦人、21歳で亡くなっている。この人は、当時芸大の美術部の学生だった。ある意味、非常にエリートだった。エリートで、美術の学生だったけど、詩も投稿していました。それで芸大に入りました。芸大に入った年に「ロシナンテ」に誘われて入った。もう当時としては、投稿している詩がとっても美しいんで、それでもう目をつけられて、入りなよ入りなよと誘われて、でも1,2号待たせてやっと入った。入って少し経ったら、交通事故で、車と車がぶつかったのに巻き込まれて亡くなった。
そういう人の詩、詩学で読んで、今でも国会図書館に行って検索すれば読めますが、「詩学」で特集していたのを読んで、やっぱりうたれた。すごくきれい、配った紙の最初のページね。4篇あるけど、どれ読もうかな。2篇目、「LA NATURE MORTE II」。これフランス語ですか。これは「静物画」っていう意味ですかね。直訳すると「死んだ自然」になる。
LA NATURE MORTE II 勝野睦人
わたしのいかりには注ぎ口がない
わたしのかなしみにも注ぎ口がない
だからわたしは できるだけ
ひっそりと自分をもちこたえていたい
けれどもあるひとのひとつの言葉が
けれどもあるひとのひとつのしぐさが
いかりをはげしくゆさぶるのを
かなしみにかなしみを注ぎそそぐのを
わたしは どうするすべもしらない
そんなとき
いかりはいかりのおもてをつたい
かなしみはかなしみの縁までせりあげ
めいめいに
めいめいの形象(かたち)にこだわることしか
めいめいの周辺をぬらすことしかできない
そしてわたしは どこからか
一枚の布ぎれをみつけださねばならない
この こころの不始末をふきとるために
べつのあたらしいひとつのこころを
またあたらしくよごさねばならないーー
若いって言えば、ホントに若い詩なんだね。ホントに観念的だし、でもこのまっさらな感覚っていうのは、やっぱり詩を書くものにとってはぐっとくるでしょ。言葉も新鮮でピカピカしているし、言葉を吐き出すっていう行為に対して、真剣に、新鮮に向き合っている。それから比喩が、恥ずかしげもなく比喩を使うでしょ。「わたしのいかりには注ぎ口がない」なんて、こういうの、大人は恥ずかしくて書けないんだけど、もう堂々と書いているよね。やっぱり若者の真摯な書物(かきもの)って、年寄りでもうたれるね。恥ずかしげもなくセンチメンタルだし。これも若いから許されるんだけど、若いから許されるっていうことは、若い時に書いた詩は、一生許されるって言うことなんだ。いや、年取ってからでもいいのかもしれない。それから「かなしみ」とか「しあわせ」とか普通みんな詩に書かないでしょ。僕は書くけどさ。(笑)普通は使わない言葉を使っているよね。
さっき「まど・みちお」の話が出たけれども、この人も衒いもなく静物、生きていない静かなものになりきるっていう、そういう心をもった人なのかな。ほかの詩もね、すごくきれいな詩がいっぱいある。
それで、僕は今日、勝野睦人の詩をもっと説明しようかなと思っていたんだけど、これを国会図書館で読んでいた時、もう一人、この人についても小柳さんが書いていた人がいることを知った。好川誠一。読んでみると、好川誠一って、「ロシナンテ」に創刊当時から入っていた。それで好川誠一っていうのは、1934年に生まれて1964年に亡くなっている。30歳で亡くなっている。これも若いんだけど、でも勝野睦人とはちょっと違う。たった2歳の違いだけど、ぼくもきちんと調べないで言うのは申し訳ないんだけど、だからこれは僕の感じ方だからそこは割り引いて聞いてください。勝野はエリートで芸大に入って美術をやりながら片手間で詩を書いていてその詩が絶賛されていた。好川も詩はすごいです。読めばわかる。詩の才能はすばらしくあった。でも勝野と違って、もう家庭を持っていて、植字工をやっていたのかな。でも生活はすごく苦しかった。貧乏暮し。時代のせいもあったでしょう。生活苦の中でなんとかやっていた。で、華々しい詩のデビューはしています。これも読んでみましょうか。まだ時間大丈夫かな。
花よおかえりなさい 好川誠一
かなしいぞう
さみしいぞう
うおん うおおん泣こうではないか
きみよ きみは買われたのではない
時間が売られただけではないか
脂肪太りの男のエゴに
きみよ きみのおしりにそつと
手をやってごらんなさい
ほうら
きみにはしつぽがないではないか
けものたちはきみをなかまにしてくれないのだよ
そういうきびしい おきてがあつたのだよ
きみのこころの花は造花ではなかつたから
きみのひとみの湖は灰色をこばんだから
きみのほほの太陽は燃えきつていないから
月はあまりに皮肉だけど
いいんだよ
花は あくことのない永遠の美がほこりなのですよ
おかえりなさい
おかえりなさい
ただいちどだけ
おもどりなさい
どこかで きみはうまれ
どこかで きみははぐくんだのです
〈ちつちやなからだのどこにあの 大地を震わす呱呱のこえがひそんでいるのでしょう〉と
くびをかしげた ひとだけがしつている
せい いつぱいのこえをはりあげて
きみよ 泣こうではないか きみよ
きみよ なみだをわすれた きみよ
うおんうおおん泣こうではないか
それから、最後に載っている「水平線に叫ぶ」っていうのも、これもとってもいい詩。もうなんともね、この詩読むと切なくなる。つらくなる。この切なさとかつらさって、勝野とは別種なんだよね。べったりと生活がくっついている。あとでそれを知ったからなのか、この詩を最初に読んだときからなのかわからないんだけれども、そういう何か求心力を持っている。間違いなく才能あるよね、この人。こういう詩を投稿詩として載っけている。勝野は言葉にきれいに向かっていたけど、好川は生きることに真剣に向き合っていた。その中で詩を書いていた。それでも詩は書ける。
でも、ご存知のように好川と石原っていうのは創刊当時からの同人なんだけれども、好川にとって石原はどういう存在だったか。年はだいぶ上だけれども、やっぱり、詩は一人で書くもの本当は。詩は一人で書くもの。俳句なんかは吟行とか人と一緒にどこかに行って詠んだりするけど、詩はあくまでも一人で書くものなんだけど、同人誌を作ったら、その段階から様相が変わるでしょ。やっぱり、5人集まったら、比較はしなくても、差異は出てくる。詩はいろんな多様性はあっても、だれかがどこかで、順位付けをする。そういう世界なんだよね。良くも悪くも。同人誌に入ったからこの詩が書けたっていうことももちろんある。でも同人誌に入ったからこんな苦しみを持ったっていうこともある。これも事実なんだ。まさにこの雑誌で好川の不幸は二つあった。
これは小柳さんが書いていたと思うんだけど、好川にとっての不幸は石原吉郎をライバルと感じてしまったこと。それはそうだよね。創刊当時の優秀な二人なんだから。でも、石原吉郎をライバルとして感じて、敵う人は日本にいないよ。石原吉郎がその時に書いている詩だけではそれはわからないけれども、それから石原吉郎がどんな詩を書いてどんな思想を持ってゆくかなんて当時の好川だってわからないよ。それはだれにもわからない。
でもその時に「ロシナンテ」を出して、当時は同人誌に載った詩からピックアップされて商業誌に載ったりすることがあって、投稿じゃなくっても、同人誌にいると詩の年鑑に同人誌の代表作みたいにして載ったんだよね。全国の詩誌から優秀な詩を選ぼうとか、好川もそういうのにしょっちゅうえらばれていた。でも、悲しいかな石原吉郎の才能の大きさはわからないから、この人をライバルと思ってしまった。がむしゃらにやっていた。でも、生活は苦しい。でも、石原吉郎だってあっけらかんとして書いていたわけではなくて苦しいこともあったんだけど、表面的にはどんどんいい詩を書いていて、世評もすばらしくて、好川は置いていかれる。置いていかれるっていう気持ちは、でも詩を書くっていうこととはまったく関係ない。まったく関係ないんだけど、一人の人間としてはやっぱりイライラするんだよ24時間の中で。
それで、これは偶然なのかもしれないんだけど、石原吉郎が「サンチョ・パンサの帰郷」でH氏賞をとったのが1964年のこと。H氏賞をとった時に、好川はびっくりした。関係はないのかもしれないですけど。好川って、ノイローゼにかかっていて病院に入って、その1964年に自分で死んでいる。同じ1964年なんだ。だから、たかが詩、たかが同人誌だけど。やっぱり好川ってまじめな人だから、生活にも取り組んで自分の詩も良くしたいと思っている。でも到底敵わない人がそばにいる。やっぱり自分のことを考えたんだと思う。これ、誰の罪でもないよ。好川自身だって素敵な詩をいっぱい書いている。でもやっぱり比べてしまう。石原吉郎が賞をとったから死んだのではないのかもしれないけど、この死亡って、神経を病んだこともほかにいろんな理由があったのかもしれないけど、やっぱり同人誌にはいって人間関係、自分の作品と人との違い、こういうのって、間違いなく気持ちの中にあったと思う。
それから好川のもうひとつの不幸っていうのは、さっき話した勝野に関して。勝野は好川の二つ年下。だけど、好川にとっては、伸びやかな才能があとになって同人誌に入ってきた。でも、好川にとっては石原ほどの敵じゃないって思ったんじゃないかって、僕の勝手な想像。自分の才能だって勝野に負けてないって好川は思っていたと思う。でも、好川にとって不幸なのは、勝野が事故で急に亡くなってしまったこと。若くて、いきのいい詩を書いている真っ最中に亡くなったこと。もちろん勝野の責任ではないんだけど、勝野はそのことで神格化されてしまった、それで。勝野の作品って、その価値以上に褒め称えられている。だから、彼が亡くなった数十年後にも「詩学」で勝野の特集をして、それが僕の目に入った。
これはね石原吉郎が言った言葉だと人が言っていたからどこまで本当かわからないけど、好川は勝野が交通事故で亡くなったときいた時に、ぜんぜんショックを受けていなかったって言っている。でも、繰り返すけど。これはどこまで本当かどうかはわからない。で、これは非常にいやな言い方だけど、下から上がってきた自分の新しいライバルがいなくなったと思ったかもしれない。でも豈図らんや、その人の詩はすごく神格化されてしまった。自分は先に行く人に遅れて、後ろから来た人の詩も絶賛されてっていう不幸の中に死んでいった。
これ、僕はね、ここから何かを結論づけたいって思っているわけではない。でも、詩ってもちろん生活とは別のもの。自分の生活とは別の部屋。だけどその部屋を開けるこちら側には自分の生活があるわけ。好川が惨めだったって僕は思わない。彼は彼なりのやりかた。石原や勝野が十全に幸せだったとも思わない。彼らは彼らの中で苦しみ、才能に悩みやっていたんだろうと思う。だけど、同人誌っていうのは、とっても気をつけたほうがいい。人間関係で、自分の詩が傷つかないようにしようよっていうこと。これからみんなもいろんな同人誌に入ってゆくと思うの。その中で、賞なんてものはたまたまその時にだれかがとっちゃうかもしれないけれども、やっぱり自分自身っていうのをきちんと持って、自分の書いている詩は、自分によって不幸にしてはいけないんだなっていうのを僕は思う。やっぱり、自分が書いた作品によって自分が助けられるような書き方、そういうコントロールの仕方、そういう感覚のとりかたっていうのをやはり、こういうところから学んでいったほうがいいと思う。出来事っていうのは、もろにそれをかぶっていたら神経がもたないよ。自分を守るためには自分の作品ってすごく大切に思って、だれがなんと言おうとこの詩を自分は書き上げたんだ、こんな自分でもこんな詩が書けたんだっていう所に立ち戻ろうよ。同人誌で辛くなったらやめようよ。それくらいのね、いい関係でやっている時はいいけれども。詩の世界は平等だけど、同人誌の世界は人間の世界で平等ではないから。人間と人間の関係になるから。
詩を見ると、これはあとで見てもらえば分かるけれども、その人たちの生活が垣間見られるとは思わないんだけど、やっぱり詩は詩人によって書かれているんだなっていうのが僕の感想です。好川が好川の詩を書いたんだな、見事だって僕は思う。以上です。