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2019年9月の話
​詩は死をどう扱うべきか
​    
​松下育男

 

前回

池井昌樹さんとの対談をしたんですけど

そのテープ起こしをしながら

どうも僕は

質問をしながら

池井さんを追いつめていたような感じのところがあるなと

気がついて

 

話している時は

そんなつもりはなくて

ただ愉快に言葉を出していただけなんですけど

 

だから気がつかなかったんですけど

テープ起こしをしながら

そんなふうに思いました

 

なんていうか

池井さんと二人で飲み屋で話している時は

そんなことはないんですけど

 

みんなの前で話をする

という状況になると

池井さんに質問をしながら

みんなはどんなふうに感じて聴いているだろうという

意識が入ってきてしまって

 

結果として

僕の気遣いが

みんなの方へ傾いた分

池井さんへの分が減ってしまった

 

それで

池井さんに多少悪いことをしてしまったかなと

思いました

 

いつだったか

子供の頃に

僕は友人の気持ちを傷つけてしまったことがあると

いう話をここでしたことが

ありますけど

 

なんか

相変わらずの自分に

がく然としています

 

もっと丁寧に

人と接しなければいけない

 

もっとこわごわ

生きていかなきゃいけない

 

もっと大切に

呼吸をしていかなければいけない

 

いつもながら反省をしています

 

池井さんへ向ける気遣いが

ちょっと別の方へ向かってしまった

という反省から思うのは

気持ちの向きかたそのものを点検することの

大切さです

 

詩を長年書いていると

自分の詩の行き先を

つい見失うことがある

 

本来

こういうことが書きたかったのに

あるいは

こういったふうに書きたかったというものがあるから

詩を書いているのに

気がつくと

人の思惑や

評判や

見栄や

なんかに惑わされて

違った場所に立っている

 

もちろん

心境というのは

時とともに変ってゆくものではあるから

志の向きが変ってしまうことを

あながち否定はできない

 

でも

やっぱり

かつての

詩に触れた時のみなもとは

時々思い出したほうがいい

 

詩を書いていて

つらくなった時

 

どうして書いたものが

分ってもらえないだろうと

思った時

 

仲間の栄誉を

うらやましくて悔しくなった時

 

そんな時に

帰るべき場所は

詩を書き始めたときの

詩に出会った時のまっさらな自分だと思う

 

そもそも

自分はなにを書きたいのだろう

というところに戻る

 

死ぬまでに

これだけは書いておきたい

というものがあるはずで

いったいそれはなんだろう

真面目に自分に問い合わせてみる

 

今あるところから

いったん自分をゆるめてみることは

大切だと思う

 

これまで書き上げてきた詩は

自分を有頂天にもし

絶望もさせてきた

 

みんなそうなのだと思います

 

ただ

その絶望が長く続くようなら

書くことがひたすらつらくなったら

いったん自分をゆるめてみる

 

そして

もともと自分は何を書きたかったのか

という地点に戻る

 

そこへ何度でも戻ることが

むしろ

自分を成長させてゆくことに繋がるのかも知れない

思います

 

さて

今日の僕の話は「詩は死をどう扱うべきか」という題です

 

こないだfacebook に「火山」うんぬんということを書いたんですけど

変えました

 

題は

大げさなんですけど

僕の話は

その一部分を拾い上げて話すだけです

 

話を聴きながらみなさんがそこから

考えを広げていってもらえればいいと思います

 

あるいは

考えを進めて行ってもらえればと思います

 

もちろん「死ぬ」というのは

詩にとっては抜き差しならないテーマであって

というか

詩の究極のテーマは死であると

言っても言い過ぎにはなりません

 

これはこないだfacebook

にも書いた事なんですけど

 

日本語というのは

面倒なもので

なんで「詩」と「死」が同じ発音なのかと思うのですけど

話をする時に

あるいは聴く時に

いちいち面倒だなと思うんですけど

ぼくにはどうも

この二つの語が同じ音であることに

抜き差しならない理由があるような気がして仕方がないのです

 

先月の池井さんとの対談でも

子供の頃に「死」を意識した時の衝撃のことが話されていて

その体験が詩作に結びついていることの話になりました

 

あの時の話は

「自分の死」についての話でした

 

自分が死ぬと家族にもう会えなくなるんだということを

意識した時の恐怖でした

 

もちろん死には

自分の死と

他人の死の

二通りがあって

それが明確に別々の問題になるとは思えないけど

僕が今日考えたいのは

おもに人の死についてのことです

 

(先月の詩)

 

こんな話をしようと思ったのは

先月この会に提出された作品の中に

お父さんの自死の様子を書いた詩があったからです

 

その詩では

それだけを書いているわけではなくて

詩の中の一部として

お父さんの死んだことが書かれていたのですが

僕にとっては

考えさせられる言葉であったわけです

 

というのも

僕自身が

過去のある日

身近な人が自ら命を絶ったという経験を持っていて

それはもう

三十年以上も前の出来事であるわけですけど

それからの三十年間をずっと

「なぜあの人は死ななければならなかったか」

を考え続けてきているからなのです

 

三十年間

一日も欠かさずに

その疑問にとらわれている

勝手に苦しんできているわけです

 

でも

悲しいかな答えは見つからない

 

仮に見つかったとしても

それが正解なのかどうかを判定してくれる人はもう

どこにもいないわけです

 

(イノシシの死)

 

「死」を思う時に

よく思い出される言葉が僕にはあります

 

ずいぶん前に観た

テレビのドキュメンタリー番組の中での

谷川俊太郎のコメントだったと記憶しています

 

その番組では

イノシシが道端に死んでいることをやっていて

谷川さんがその死に方について

こんなことを言っていました

 

 

「イノシシが道端でのたれ死んでいる

 

ぶざまに死んでいるように見えるかも知れない

死の尊厳が踏みにじられているように見えるかも知れない

穴を掘ってあげて

このイノシシを埋めてあげて

葬ってあげたいと思うかも知れない

 

でも

それは人間の勝手な思いなのではないだろうか

イノシシの死の

何が尊いかは

人には決められない

 

イノシシは

与えられた自らの生を生き抜いて

死んでゆく

命が絶える

 

それまで生きてきた道端で

そのまま野たれ死ぬ

それこそがイノシシの

死の尊厳と言えないのだろうか。」

 

 

資料がないので

正確にこう言ったかどうかは

覚えていないんですけど

ほぼそんな内容でした

 

この言葉に僕はうたれたわけです

 

死ぬことは個別なんだということです

 

別々なんだ

ということです

 

ひとつの考えで

複数の死をまとめあげることはできない

 

あるいは

別々だから

すべては特別であり

それは同時に

特別な死はどこにもないということなのではないのか

 

すべての死は

死そのものの中に

すでに尊ぶべきものがあるのではないか

 

すべての「死」は

あらかじめ

尊ばれてしかるべきものとしてあるのではないか

 

そこには理由はない

理屈もない

 

そう思ったわけです

 

僕がさっき

身内の自死の理由を三十年間考え続けていると言ったけれども

そんなことは

してはいけなかったことなのかとも思うわけです

 

なぜかと言えば

その人の死を

その現実を受け止めていないから

ずっと引きずっているとも

言えるわけです

 

その人の死を尊んでいないから

そんなことを考え続けているとも言えるわけです

 

その人の死を

不遜にも

特別扱いにしていた

とも

言えるのです

 

自ら命を絶ったその死も

あるがままに尊んでいいのではないか

 

それがすべてではないか

 

それで終わりにしてもいいのではないか

 

なぜ

自死にだけ特別な事情とか理由を

見いだす必要があるのか

 

そんなものはないのではないか

 

そうも思えるわけです

 

言い方を変えるなら

トシをとって命を全うするという言葉があるけれども

若くして自ら命を絶つことも

それはそれで

その人の命を全うしたと

言えるのではないか

ということです

 

まわりに残された人が

突然の死にうろたえて

恨み

後悔し

責め

責められ

とらえられて生きていかざるをえない

というのは当然あるだろうし

あってもかまわないと思う

 

無理に忘れる必要はないし

忘れることなんてできない

 

でも

さんざん考えたあとなら

もうその人の死は

尊んでいいのではないか

 

年老いて人生をまっとうした人の死と

まったく同じように考えてあげても

いいのではないか

 

生きるということの道筋は

人それぞれです

 

同じ生を生きた人は

これまでどこにもいないわけです

 

それと同じように

死にも多様性があるのだと思うのです

 

自死を肯定しようなどという気持ちは

僕にはさらさらありません

 

ましてや

いじめられて後に

自ら命を絶った人を

それでいいんだなんて言う気持ちは

僕にはまったくありません

 

ただ

その死を受け止める側の人のことを

考えるなら

自死も

死のひとつのあり方でしかないと

あえて考えたい

 

そう考えてもかまわないのではないか

 

特別扱いをすることはないのではないか

 

いつまでも

この人は自死だったと

区分けをしているのは

酷なのではないか

 

そんなことを思っているわけです

 

話がもどりますが

先月提出された詩には

お父さんが自死したありさまが書かれていました

 

そのことにずっと捕われている人にとって

それを書くのは当然の事なのかもしれません

 

さっき言ったように

生があくまでも

ひとつひとつ別々に現れてくるように

死もまた

個別の物語をもっています

 

その人にとってのお父さんの死の物語を

僕は知ってはいません

 

だからこれは

僕の勝手な理屈ですし

人に押し付けるつもりはないのですが

どんな自死にも理由がありますが

でもその理由は

それ以外の死の理由と

区別すべきではないのでないかと

思うわけです

 

どんな自死にも理由がある

と考えるよりも

どんな死にも理由がある

と考えたい

 

自分の意志で命を絶つ

というのも

ほかの死と同様に

条件なしの死の尊厳の内に入れて考えても

かまわないのではないか

 

(死を書く)

 

詩に

身内の自死を書くというのはどういうことだろう

 

おそらく

その死を受け入れる前に書かれた詩と

受け入れたあとに書かれた詩は

おおきく違ってくるのではないか

 

受け入れる前に書かれた詩は

どうしても自分の感情の上に乗った言葉で

書かれてしまう

 

揺れた状態で書かれてしまう

 

もちろん

どんなふうに書こうと自由なのだけれども

受け入れる前に書かれた詩は

なかなか詩として自立が難しいのではないかと

僕は思う

 

作品というのは

その作品だけでそこに立っているべきなのです

 

その作品がもたれかかっている思想や

事情や

先入観は

必要ないと思うのです

 

作品は

その作品だけで存在すべきなのです

 

でも

現実を受け入れる前に書かれた詩は

作品としてなかなか自立はできない

 

そう思います

 

(許すということ)

 

受け入れる

というのは

許す

と言い換えてもいいのかもしれない

 

許す

という言葉で思い出すのが

一つの新聞記事です

 

これはもうよく知られた冤罪事件なので

知っていると思うのですけど

河野義行さんという方がおられますね

 

松本サリン事件の時の被害者で

奥さんをその事件で亡くし

さらに

警察やマスコミから犯人扱いをされる被害も受けた人です

 

八月三日の朝日新聞に

河野さんへのインタヴューが載っていました

 

この記事を

震える思いで僕は読みました

 

インタヴューの題は

「許せるものですか?」というものです

 

つまりこの題に省略されているところを補えば

「そこまでされて許せるものですか」

ということです

 

そこまで

というのは

想像を絶する「そこまで」だったわけです

 

冤罪で

七人の人を殺した犯人だと

日本中から目されていた時に

河野さんが子供達に言った言葉がこういうものでした

 

「人は間違うものだ。間違えているのはあなたたちの方なのだから許してあげる。そういう位置に自分の心を置こう」

 

この記事は僕にとっては

驚きでした

 

許す

という行為には

果てがないのかと

思いました

 

多くの人は

河野さんのようには

振る舞えないだろうと思います

 

僕も同じです

 

でも

果てしもなく人を許せる人がいるのだ

ということを

この記事を読んで

知ることができました

 

(許したものを書く)

 

受け入れることは

許すことです

 

許せば

詩は自立ができる

 

自立したものこそが

詩なのだ

 

詩は

許した人が書くべきものなのではないかと

僕は思います

 

死んだ人が死なれた人を許し

死なれた人が死んだ人を許し

最後に

死なれた人が死なれた人自身を許す

 

許して後に書かれたものが

十全に詩になるのではないかと

思います

 

すべての生が個別だし

全く同じものはない

 

だから詩は書かれる

 

同じものがないから孤独なんだし

その孤独をなだめるために

同じではなくても

同じようなところがあるのではないかと

手を差しのばす

そのために詩は書かれるのではないか

 

そうであるならば

すべての死も個別であり

すべてが個別であるというそのことによって

特別なものなんてなく

あらゆる死を平等に受け止めて許してもいいのではないか

 

いったん同じものとして

受け止められるからこそ

その死の個別性を

冷静に作品として昇華できるのではないか

 

そう思うわけです

 

(手紙)

 

ぼくの身内の死は

最期にひとつの手紙を

僕に残しました

 

そこには

「あなたは

詩を書き続けてください」

ありました

 

僕はその人の死からの三十年を

生活していく上で

みんなと同じようにいろんなことに悩んで

ある時期は

詩なんか書いていられなくなって逃げたり

戻ってきたり

また逃げたり

再びおずおずと戻ってきたりしてきました

 

そして今は

詩の教室の

ここにいます

 

あの時の

手紙の文字に従ったつもりはないけれども

結果として

七十近くになっても

いまだに詩を書いています

 

僕は詩を書いています

 

何度逃げても

詩はいつまでも

僕を待っていてくれます

僕らを待っていてくれます

 

詩は

どんな条件も付けずに

僕らを許してくれます

 

僕は

死ぬまで

まさに

自分が死ぬ直前まで

他者も

自分をも許した後の詩を

目指して書いていきたいと思っています

 

僕はまだ詩を書くつもりです

 

さらに言うなら

僕が必死に今書いている詩は

僕の分だけじゃないような気が

時々します

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