

2018年5月の話
二人の自分、枕元の詩
松下育男
今日は短い話を2つします。
1つは「二人の自分」というので、もう一つは「枕元の詩」という話。
そんなに長く話すつもりはありません。
(1) 2人の自分
詩を読んでいて、「すごいな、これはいいな」と感じる時ってある。その「すごい」って、いろんなケースがあると思うんだけど、そのひとつが
ー 自分だったらこんなふうには書かないな
ー どうしてこの一連目からこんな二連目へ向かえるんだろう
ー この言葉の後にこんな言葉は普通つながっていかないよな
という、なんというか驚きが、ひとつの感動になることがある。
つまり読んでいて、作品の非凡さを感じるとともに、同時に自分の凡庸さも感じているわけ。
優れた作品を読んだ時って、自分はここまでは書けないと思う悔しくて弱々しい心が湧いてきて、自分の感動をなぐさめるような形でうなだれてしまう。そのことにちょっと気持ちよくなったりもする。
ただ、ありふれた自分とか、ありきたりな自分っていうのは、詩を書く時にはどうしようもないわけだけど、日常、というか普通の時間には、そういった自分はとっても大切な状態なわけ。
目が覚めたらとりあえず、ありふれていなきゃならない
会社で挨拶したり、仕事の受け答えをするときには、ありきたりな自分が必要なわけ
まっとうで、ひねりのない、特段な発想もない言葉って、だから、しっかりと自分の中になきゃならない。
で、そんなことを考えていると、詩を書く時って自分の中に二人の自分がいるなっていうことに、気付くわけ。
剥がれるように二枚の自分が体の中に入っている。
凡庸で、いつもこんな言葉の後はこんな言葉が続くということに平気な、ありきたりな自分。
その自分が書いた詩って、ほんとに誰でもが考えることとまったく同じで、
お元気ですか
はい元気です
という会話となんらかわらない。
悲しいほど当たり前な自分なわけ。
でも、ときどきそうではない自分がいることに気づくことがある。
それって、何もしていない時に、そうでない自分がのっそり出てくるわけじゃなくって、詩を書いている時、まさに書いている最中に突然、現れてくる。見えてくる。
この言葉の後に
なぜか別の言葉が出てくる
いつも見ている方向とは
違った角度からその先が見えてくる
1行がめくれて見える
一本道の脇に
ちょっと振り向いたところにもうひとつの
目立たない道が見えてくる
詩を書いている自分を
上空から俯瞰図のように見下ろすことができる
そういう状態になった時には
詩が
違ってくる
どこか
ありきたりではなくなってくる
一人前の詩ができる
だから詩を書いていて、なかなか書けないなという時は、そのありきたりな自分がほぼ自分を支配している時なわけ。
だったら、どうしたらありふれた発想から抜け出した自分を見つけ出せるかっていうと
つまり、それが分かれば苦労はないんだけど
そこのところが才能と結びつくんだろうけど
容易には見つからない
それに、いったんありふれていない自分が詩を作り上げたとしても
次の瞬間には
もうありきたりな自分に戻っている
それって、人によっては持って生まれた才能というか
特に学んだわけでもないのに
詩を書き出したらスムーズにありふれていない自分を取り出せる人って
たまにいる
でも
大抵の人はそうじゃない
だからそういう、大抵の人は
訓練をするっていうのも一つの方法
優れた詩を読んで、ああすごいなと
感じるだけで終わらさないで
自分がこの詩を仮に書いていたら
もっとありふれた展開でしか書けなかっただろう
だったら、この詩がそうでなくなっているのは
ありふれていないのは
どの部分だろう
どこだろうと
目を凝らしてみる
自分だったら
この詩のこの言葉のあとには
こんな言葉しか思いつかない
でもこの詩人は
この言葉の次にこんな言葉を持ってきている
この差は何だろう
この違いはなんだろうって
しっかり差異を見つめながら詩を読む
それがひとつの
訓練になるんじゃないかと思う
で、次の話。
(2) 枕元の詩
僕なんかこの歳になると、だんだん周りにいなくなって行く友人が増えてくる。
だからその人を思い出すときに、その人との出来事を思い出すとともに、もうひとつのその人についての項目が増えてくる。
つまり、その人との関係性の横に、その人が「まだ生きているのか亡くなっているのか」のタグというか、フラグがついてくる。
その人が生きているか、亡くなっているかを思い出しながら、その人との出来事をおもいだす
ところで、僕もその友人の内の一人なわけで、でも、唯一、生きているか亡くなっているかを考えなくてもすむ対象が、自分なわけ。
で、この頃思うのは、僕が死ぬ時に、その瞬間に、一緒にそばに置いておきたい詩はあるだろうかっていうこと。
いくつも置くのは品がないから、たったひとつとしたら何だろう。だれの詩のそばで死んで行きたいだろうって考える。
僕の場合は阿部恭久。
今日はあえて詩を持ってきてないけど、それに、有名な詩人だからことさらっていうとこもあるけど、もし知らない人がいて興味があったら、一度読んでもらいたい。
でも、こういうのって、おうおうにしてあるんだけど、この詩人はすごいよ、この詩は傑作だよと、人に言われて、読んでみると、さほどに感じないことってある。
つまり、その人にとっての特別な詩って、簡単に人とは共有できない。
優れた詩やきれいな詩、感動的な詩は、それなりに人と分かち合える。
でも、この詩こそは、っていうのは、優れているとか感動的だとかいうのとはちょっと違うというか、その先、というか、もっと個人的なものなのかなって思う。
それでいいんだと思う。
死ぬ死ぬっていって申し訳ないけど、いろんなことがあったけど、やっぱり僕は、最期はひとつの詩を枕元におきたい。
だから、もしひとつの詩を枕元に置いて、この世を去るときに、君なら何を置くだろうって考えてみよう。
たぶんその詩が、この世に生れた君に詩を書こうと思わせ
生きているあいだうっとりとさせ
ひどい気分の時にすくってもくれたんだと思う
詩の効用とか
大げさなことを言う気はなくて
でも、
こうして本気で詩に向かっている人には、
それぞれに、「これこそが私にとっての詩」
というのがあると思う
その詩がどれかなんて、人に言わなくてもいい
どうしてなのかなんて、説明する必要はない
その詩といつも二人きりで
生きていく
その純粋な姿勢が、君の詩をまちがいのない方向へ導いてくれるんだと
信じるわけ